ERB評論集 Criticsisms for ERB


原忠彦(東京外国語大学講師・文化人類学)
「ターザン――その人類学的考察」

白人世界にふたたび一大ブームを呼ぶこの密林の英雄は何者か。彼はわれわれに何を訴えるか

中央公論1970年10月号所載


はじめに

 ここ10年間、日本を離れる機会のあるたびに、ターザン、ターザンという言葉にお目にかかる。1960年から1965年までのオーストラリア滞在中、キャンベラのニュース・スタンドには、絶え間なく安いぺーパー・バックスのターザン物が並べられていたのを目撃した。その多くは、英国のフォー・スクェア・ブックスというシリーズ出版物に再録されたものであり、そのシリーズでは、1959年より1961年までに、ターザン全二十余作のうちの少なくとも十数作が再版されている。本年3月インドネシアに立ち誇った際には、実にモダンな抽象画で表紙を彩ったぺーパー・バックスのターザン新版が輸入されて店頭を飾っていた。未だ直接確める機会はないが、本場のアメリカではいうまでもないようである。
 1963年ライフ誌(11月29日発行)の報ずるところでは、ターザンの原作者バローズ(Edgar Rice Burroughs : 1875〜1950)の後継者たちが版権を失った1962年以後、ペーパー・バックスが洪水のように現われ、1年間に1000万部売れ、アメリカにおけるペーパー・バックスの売上げの30分の1を占めたといわれる。1967年には、フェントンによる『偉大なる枝渡り者』(R. W. Fenton : The Big Swingers ターザンが木から木へつたかずらを使って飛び移るところから来る書名のようである)というターザンの原作者の大部な伝記まで出版されている。また、今年6月のル・ヌーヴェル・オブセルバトール誌は、ターザン原作の初期の4作が仏語訳されたことを報じ、ついでに主人公たるターザンの簡単な伝記を記している。
 他方、日本では、ワイズミューラーの主演する映画を除けば、かつて大きなターザン・ブームがあったことを聞かない。戦後、山川惣治の少年王者物とか、バルーバ物といったような翻案物は別として、ターザンの原作が特に読まれた様子はない。昭和29年には、西条八十の訳によって『ターザン物語』として、ターザンの第1作と第2作が翻訳されてはいるが、それが特に話題となった様子もない。テレビで、新しいターザン物の放映はあるが、それは『サインはV』的な熱狂を生み出しているとは見えない(もっとも、この9月には、劇探険隊M・Mという小劇団が『ユートピアのための善の研究ターザン』〔台本・橋本勝氏〕を上演するようである)。
 この小文で、筆者は、(1)現在ターザンが広く欧米で読亥れていることの意味と、(2)日本でなぜターザンの原作が流行り得ないのかという理由づけを、ターザンの原作の性格の中に求めてみようとするものである。ここであらかじめお断わりしておきたいのは、ターザンの原作、映画、そしてコミック・ストリップと呼ばれるような漫画では、その描かれている世界が全く異なるということである。この小文で取り上げるのは、主として、原作、小説としてのターザンであり、映画のそれは、必要に応じて適当に対比させることにしたい。
 さて、本論に入る前に、この「類人猿ターザン」(Tarzan of the Apes)なる主人公を創り出した男E・R・バローズと、ターザン自身の伝記を略記したい。
 E・R・バローズは、1875年、旧北軍の退役大尉である小事業家、の末子としてシカゴに生れた。ごく若い頃から、西部の駅伝夫といった変った職経験をもったが、後、父の命により職業軍人としての道を歩みはじめる。しかし、それも、軍人養成学校での退学や、士官学佼への入学失敗などあって成功せず、それから後は、騎兵隊員としてアリゾナでアパッチと対したり、下級会社員となったり、兄と一緒になって金鉱さがしの天幕生活をしたり、はては駅の警傭員となる等の失意の35年の前半生を過した。こういった不遇な生活の生計の助けとして、さらに、おそらくはひしがれた自己の一つの表現として、彼が1911年に書きはLめたのが、彼の一生を通じての創作活動の二つの柱となった「火星物」(これは、日本においては、比較的数多く翻訳がでている)と「ターザン物」である。
 それから以後はとんとん拍子。ターザンの映画化等もあって今や小説家としての生活は楽になったが、家庭的にはあまり恵まれず、1935年には、かつて10年間も求婚し続けてはそのたびに断わられ、ようやく1900年に結婚したエマと離別、第二の妻とも1941年には離婚ということになる。この不幸なる女性歴と、不遇の前半生、そして厳しかった父と、やさしかったペンシルヴァニア・ダッチ(ペンシルヴァニア・ダッチは、機械を否定して素朴な生活をモットーをする集団)出の母のイメージが、ターザン物の性格づけ等に大きな役割を果すことになるのである。1919年からカリフォルニアのランチョ・タルザナ(Rancho Tarzana)と命名された豪邸に住んでいたバローズは、1935年頃よりたびたびハワイを訪れて、そこで時を過すようになり、第二次大戦には従軍記者として参加、やがてカリフォルニアに戻って、ランチョ・タルザナの近くの家で、1950年に三児を残して心臓病でその生涯を閉じる。ターザン物の創作活動は、それより10年早く、1940年頃に終っている。
 彼の創り出した英雄ターザンは、小説の中では1888年、英人グレーストーク卿ジョン・クレイトンとその妻アリスの子として、西アフリカ海岸南緯10度辺(コンゴとアンゴラの境?)で生れた。したがって、第二次大戦を舞台とした作では本来50歳を超えていることになるが、小説の中では、彼は、いつも若く、せいぜいいって30代前半というところに書き表されているようである。
 彼の両親が西アフリカ海岸に二人だけで住むようになったいきさつは、第1作『類人猿ターザン』に詳しい(Tarzan of the Apes 1911年より1912年にかけて書かれ、雑誌には1912年、単行本としては1914年に発行された。以下年号は、書かれた年を記することにする)。彼らは植民地への赴任の途中、船員の反乱にまきこまれて結局近くの海岸に置去りにされたのである。ターザンの生後1年、母は病気で亡くなり、その死体のそばで悲しんでいた父は、類人猿カーチャックのために殺されることになる。そしてそのとき、たまたま自分の子をなくしたばかりの雌の類人猿カラがターザンをひきとり(?)、彼は、「類人猿ターザン」としての生活をたどることになる。この「類人猿」はゴリラではなく、どうもいろいろな点でチンパンジーに近いようであるが、小説の中では、もっと大きなゴリラと同様に力強いものとして描かれている。
 ターザンはかくして動物としての敏捷さと力強さを身につける一方、両親の残した本から「読むこと」を習い、さらには仏人ダルノー大尉や、アメリカ人の学者の娘ジェーン・ポーターとの出会いによって、入間の言葉を「話すこと」を習い、文明に按するようになる。後に彼は彼女と緒婚し(The Return of Tarzan, 1912〜13)、グレーストーク卿としての地位も認められ、イギリスからフランス、北アフリカから黒人アフリカ、さらには、生前出版された最終作ではスマトヲにまで足をのばして(Tarzan and "the Foreign Legion",1944)活躍する。しかしなんといっても、彼の活動の主要な舞台はサハラ沙漠以南の黒人アフリカであり、多くの読者にとってターザンの名は「密林」と結びついて記億される。彼は、ジェーンとの間にジャック、またの名をコラックという子供をもうける。
 以下、このターザンの原作を、いろいろな視点から内容分析し、それらの記述の終った後で、先に述べた二つの命題、欧米と日本におけるターザンに戻って行きたい。

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 永年のバローズ・マニア、大野さんより贈呈いただいたターザン論文所載の「中央公論」誌よりの転載である。導入部だけでこの長さ。おいおい、全文紹介するつもりなので、乞うご期待。

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