エッセイ Essey for ERB's world


バローズをとりまくSF事情と時代の流れ

Edgar Rice Burroughs and Science fiction stream in Japan

by Hide '96.Nov.02


 SF作家としてのバローズの評価は、高いとも低いとも言い切れない複雑なものがある。
 創元推理文庫のSFマーク(現在の創元SF文庫)やハヤカワSFシリーズ、ハヤカワ文庫SFといった日本におけるSF紹介のメインストリームでその作品の大半を読むことができる(まあ現在ではそのほとんどが絶版な訳だが)というのは、SF作家としての評価のひとつの現れだろうし、代表作である「火星のプリンセス」などは10社以上の叢書に収録される人気ぶりでもある。しかし一方で、バローズを受け入れたのはSFファンではない一般大衆だったという事実(というか考えられ方)があるのも事実だ。SF小説というジャンルを愛し、それに惹かれ、のめり込んでいた人々からは、決して高い評価は得られていなかった、ということだ。
 確かに、クラークやハインラインなどに感銘を受けた後にこれも同じジャンルの作品だといわれてバローズを勧められたら、抵抗を感じるかもしれない。戦前の海野十三らの子供向け(子供だまし)の世界――これらは小説としての水準も決して高くはなかった――と同様にみられたくないと思う人からは、これがSF の本流と見られたくはないという気持ちも生じるだろう。それらはすべて、バローズ作品の大衆性の高さによるものだ、と断言できる。
 アメリカ本国においても、このあたりの事情は大きくは違わないようにも思われる。しょせん、バローズは戦前の古い時代の作家だったのであり、「ターザン」という稀代のヒーローを創造して一山あてた歴史上の人物にすぎない。その業績に考古学的価値は与えるにせよ、現役の作家などではとうていない、ということだ。だが、そこにはやはり矛盾が横たわる。
 バローズは、死後数十年を経た現在においても(少なくともここ10〜20年の間においては)売れている作家なのであり、多くのファンに受け入れられ続けているのだという事実が、そこには立ちはだかるのだ。そこで、一部のファンはこう評価する。「あれは、SFなどではない。強いていえばファンタジーだ」と。ファンタジー・ファンにとっては噴飯ものだろうが、実際に語られた言葉だ。
 これをSFファンの閉鎖性のあらわれ、だなどとしたり顔でいうつもりはない。自分が紹介したい/してほしい形態からそれたものが紹介されてきた場合、抵抗感が生じるのは理の当然だと思うからだ。SFの定義論争は、わたしがSFファンを自称しだした20年ほど前でもあったが、これはマニアックな世界にはありがちなメジャー化への抵抗であり、とまどいであったと思う。SFが受け入れられ、認知されること自身はファンたちが目指したものでもあったわけだから。
 さて、そうはいったものの、現在、こういったことを書くのは正直なところ、むなしいものがないわけではない。創元推理文庫SFマークが創元SF文庫と改称して以来、衰退の一途をたどっているのは事実だし、ハヤカワ文庫SFにも白背の新刊はペリー・ローダンくらい、既刊本も多くは絶版の憂き目にあっているのが現状だからだ(あのキャプテン・フューチャーでさえ、数冊の復刻版が出るまでは読むこともかなわなかった。おそらく、続刊も再版も期待できないだろう)。
 しかしその一方で、SF的要素の入った一般小説や映画、ドラマ等はむしろ増えてきてさえいるわけで、そういった意味でいえば広範な意味でのSFファンの数はかつてよりもおそらくは増えてさえいる。ヴァーチャル・リアリティ等、トレンドの世界を舞台にしたおしゃれな小説はかなりでているわけだ。
 この一見矛盾した状況は、SFが一般化し、一部マニアの手を放れて一流出版社の商売としても成り立つようになってきたということのひとつのあらわれともとれるわけだが、ここで被害を被ったのがかつて多くのファンを得たエンターテインメントSFの世界だ。かつてのサイバーパンクなどの時流に乗った作品や、「アルジャーノン」のような名作がSFの地位を上げたり、あるいは変質させたりしてきた結果、かつてバローズや「キャプテン・フューチャー」のような作品が果たしてきた役割――SFを知らない人たちにまず読んでもらい、その楽しさ、おもしろさ、すばらしさを知る入り口にたってもらうという役割は、もはや必要なくなってしまったのだ。今では小学生で読むドラえもんやアニメ映画が、宇宙船もタイムマシンも教えてくれるのだから、SFに興味を持つ素養のある人間はさっさと飛びついてしまっている。
 このことを、いったいどう評価すればよいのだろうか? 時代の流れだからしょうがない、といってしまえばそれでおしまいなのだろう。たぶん。しかし、それでいいのだろうか、というのは、わたしの単なるノスタルジックな思いだけからくるものでは、ない。
 バローズの作品群が現代日本で売れたのは、単にSF入門編としてその時代に合っていたからというだけではない、と思えるからだ。バローズは、まず、それ自身が面白いからこそ、売れたのだ。当たり前の話だ。そこからSFファンになった人もいただろうが、そうでない人もいただろう。それでよかった。ぼくはその魅力にとりつかれ、それだけでは飽き足らなくなってSFファンにもなったが、決して初心者向けSFとしてバローズを読んだわけではなかった。
 繰り返していうが、バローズは面白い。アメリカにはバローズをあつかったホームページが複数あって、それぞれがかなりマニアックな作りになってもいる。いまだに多くのファンを酔わせる魅力が、バローズにはあるのだ。個人的な思いとしては、できれば多感な少年期(中学生くらい)で読むことを勧めたい。冒険小説がすきな男の子(男ならみんなそうだろう?)ならば誰だって夢中になれるはずだ。そして次から次へ、手を伸ばさずにはいられないに違いない。
 バローズは復刊されるべきだ。SFのレッテルをはずした方が売れるならそうすればいい。優れた幻想冒険小説の古典として、手の届くところにおいておけばそれでよい。「15少年漂流記」や、「モンテ・クリスト伯」、「ロビンソン・クルーソー」とならぶ価値はあるのだから。
 バローズは、現在でも現役の作家であって、それはSFを取り巻く事情が変わっても関係のない話だということを、ぼくはいいたかったのだ。それだけだ。

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