はしがき集 Plorogue


『火星のチェス人間』
序曲
ジョン・カーター地球に到来

創元推理文庫火星のチェス人間より小西宏訳

1966.5.27


 シェアはたったいま、いつものようにチェスでわたくしを負かしたところだった。そして、これまたいつものように、わたくしはある科学者たちが主張している例の学説を引きあいにだして彼の精神的欠陥を指摘し、それによってあやしげな満足をかき立てていた。その学説というのは、つまり異常にすぐれたチェス競技者というものが、12歳以下の子供、72歳以上の老人、または精神障害者などの中に見いだされるのがつねだという主張にもとづいているのである――もっとも、この学説は、わたくしがたまに勝ったようなときには、あっさり無視されてしまうのだった。シェアはもう寝ていたし、わたくしもそれにならうべきところだった。というのは、われわれはここでは、いつも日の出前に馬に乗ることにしているからだ。しかし、わたくしはそうはせずに、読書室のチェス・テーブルの前にすわって、自分の負けた王の不名誉な頭に、ものうげに煙を吹きつけていた。
 こうして有益に時間をついやしていると、居間の東側のドアが開いて、だれかがはいってくる物音が聞こえた。わたくしはシェアが、あすの仕事についてなにか相談するためにもどって来たのだろうと思った。ところが、二つの部屋をむすぶ戸口へ目をあげると、そこには赤銅色の巨人の姿が立っているではないか。宝石をちりばめた飾り帯をつけている以外ははだかで、その飾り帯の片側には飾りのついた短剣が、もういっぽうの側には奇妙な形のピストルがさがっている。
黒い髪、微笑をふくんだ雄々しい青灰色の目――わたくしは、すぐにそうしたものを見わけてとびあがり、手をさしのべながら前へ進んだ。
 「ジョン・カーター! あなたでしたか?」
 「いかにも、そうだよ、きみ」彼は片手でわたくしの手をとり、もういっぽうの手を肩に置いた。
 「あなたはここでなにをしてるんです?」わたくしはたずねた。「あなたが地球を二度目に訪れたのは何年も前のことです。それに、火星の装具をつけてきたのは、これがはじめてではないですか。驚きました。でも、あなたに会えて嬉しいです――それに、あなたは、子供のわたくしをひざにのせてあやしてくれたときより一日だってふけたように見えません。これは、どういうわけですか、火星の大元帥ジョン・カーター、どう説明するつもりで?」
 「説明できないことを、なぜ説明しようとする必要があるかね?」彼は答えた。「前にもいったように、わたしは大変な老人なのだ。自分が何歳かも知らない。少年時代のことも思いだせない。思いだせるかぎりでは、わたしは、いつも現在きみが見ているのと同じだったし、またきみが五歳のとき、はじめてわたしに会ったときとも同じだったのだ。きみ自身はふけたが、それでもほかの地球人が同じ年数のあいだにふけるほどではない。これは、われわれの血管の中を同じ血が流れているという事実にもとづくものだろう。だが、わたしのほうはまったくふけていない。わたしはこの問題について友人の有名な火星人科学者と論じあったことがあるが、彼の説は、要するにまだ理論にすぎない。いずれにせよ、わたしはこの事実に満足している――わたしは年をとらないのだ。そしてわたしは生命を愛し、青春の活気を愛している。
 「ところで、きみは、わたしがなぜまた地球を訪れたのかとたずねた。しかも、地球人の目には異様に見えるこのような服装でな。もっともな質問だ。それについては、われわれはロサールの弓兵司令官カール・コマックに感謝したほうがいい。この思いつきを与えてくれたのは彼で、わたしはそれにもとづいた実験をおこない、ついに成功をおさめたのだからね。きみも知ってのとおり、わたしはずっと前から霊魂を通じて宇宙空間を横断する能力を所有していたが、生命のない物体に同様な力を賦与することはまだできなかった。しかし、いまやきみは、火星人の仲間が見ているとまったく同じ格好のわたしをはじめて目にしているのだ――きみが見ているこの短剣は、多くの野蛮な敵の血を吸ったものだし、このよろいには、ヘリウム国の紋章とわたしの位階を示す徽章がついている。また、このピストルは、サークの皇帝タルス・タルカスからおくられたものだ。
「わたしが地球に来たおもな理由は、きみに会うためだ。それからまた、自分が生命のない物体を火星から地球に運ぶことができ、したがって、もし望めば生命のあるものも運ぶことができる、という事実を確かめるためでもあるのだ。そのほかには、なんの目的もない。地球は、わたしに適していない。わたしの関心は、すべて火星(バルスーム)にそそがれている――妻も、子供たちも、仕事も、みんなあそこにあるのだ。わたしはきみといっしょに静かな一夜を過ごしてから、白分の生命以上に愛している世界へもどるつもりなのだ」
 彼はそういいながら、チェス・テーブルの反対側の椅子に腰を落とした。
 「あなたは子供たちといいましたね」わたくしはいった。「カーソリスのほかにも子どもがいるのですか?」
 「娘がひとりいる」彼は答えた。「カーソリスよりほんの少し年下で、ただひとりを除けば、これまで火星の稀薄な空気を呼吸した女性のうちでもっとも美しい娘だ。ヘリウムのターラより美しいのは、彼女の母のデジャー・ソリスだけだよ」
 彼は、しばしチェスの駒をものうげにもてあそんでいた。
 「火星には、チェスに似たゲームがある。非常に似ている。そして、火星のある種族は、そのゲームを、生きた人間と抜き身の剣で血なまぐさく遊ぶ。そのゲームは、ジェッタンと呼ばれて、きみたちのチェスと同じように盤の上でするのだが、方眼の数は百で、両軍とも二十個ずつの駒を使う。わたしはそのゲームを見るたびに、ヘリウムのターラのことと、バルスームのチェス人間のあいだで彼女にふりかかった事件とを思いだすのだ。彼女についての物語を聞きたいかね?」
 わたくしは聞きたいといい、彼はそれを話してくれた。いまわたくしは、それをできるだけ火星大元帥の言葉どおりに、しかし三人称になおして、読者に伝えようと思う。もし矛盾や誤りがあれば、その責任はジョン・カーターではなくて、わたくしの不確かな記憶のせいである。この物語は、わたくしの記億にしたがって語られたからだ。これは不思議な物語であり、まったくバルスーム的である。


comment

 この『火星のチェス人間』のはしがきで、ジョン・カーターは死者の肉体から肉体へ、以外の飛行をやってのけています。『火星のプリンセス』でみせたオドロしい世界感はもはやここにはありません。洗練されたとも、大切なものを失ったともいえるこの展開は、バローズが彼一流の嗅覚で読者の求めるところをかぎ分けた結果ともいえるのでしょう。

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