ERB評論集 Criticsisms for ERB


厚木淳『スペース・オペラの開幕』

創元SF文庫合本版・火星シリーズ第1集 火星のプリンセス解説より

Jun.1999


第1作『火星のプリンセス』

 19世紀の後半から、やがて来るべきSF時代の胎動がはじまっていた。すでにフランスではジュール・ヴェルヌが『月世界へ行く』や『地底旅行』を発表し、イギリスではライダー・ハガードがアラン・クォーターメンをを中心とする一連の秘境伝奇小説を書き、ひきつづいてH・G・ウェルズが『透明人間』や『宇宙戦争』を出版して、文学と科学のファンタスティックな結合は着々と進行していった。しかし作品の舞台は、月世界テーマをのぞけば、いずれも地球に限定されていた。地底や海底、あるいは未開の辺境が小説の舞台となったが、主人公たちは、地球の強力な重力によって、いちように地表に釘づけにされていた。しかし重力の牽引力はやがて切れるであろう。人間が、地球を離れて広大無辺の宇宙空間に飛び出し、他の惑星を舞台に大活躍する雄大なスペース・オペラの開幕が迫っていた。幕をあげるのは誰か? ヴェルヌ以来の伝統を誇るフランスか? 大ウェルズを擁するイギリスか? それともロケット工学に先鞭をつけたツィオルコフスキーのロシアか? いや、そのいずれでもない。スペース・オペラの開幕は大西洋を越えなければならなかった。SFの鼻祖E・A・ポオ以後、その後継 者を欠いて、大陸諸国にくらべれば一歩も二歩もおくれをとっていたアメリカで、スペース・オペラは突如として開花するのだ。その光栄をになう男の名前はエドガー・ライス・バローズ。作品は火星シリーズ。そしてバローズの登場を契機としてアメリカはSF界の第一線に踊り出し、以後、今日にいたるまでその優位は失われてはいないのである。

 1911年、当時のアメリカの読物雑誌の一つ〈オール・ストーリー・マガジン〉の編集部に長編小説の原稿が持ちこまれた。作者は、簿記係やカウボーイや金の採鉱師などさまざまな職業を転々としたあげく、いっこうにうだつのあがらないまったくの無名の三十男である。しかし編集者は、その奇想天外な小説の内容にひかれて採用することにした。こうしてバローズの歴史的な火星シリーズの第1作が『火星の月の下で』 Under the Moons of Mars なる題名のもとに、翌1912年2月号から〈オール・ストーリー〉誌に連載され、SFファンタジーのおもしろさを知らなかった読者大衆の話題をさらって圧倒的な成功を収めた。
 バローズはこのとき、ノーマン・ビーンというペン・ネームを用いたが、(本人はノーマル・ビーンのつもりだったのが、誤植でそうなってしまったという。ちなみに Nomal Bean とは、ふつうのソラ豆という意味と、正気の男という二つの意味がある。こんな小説を書いた作者は、少々気がふれているのではないか、という非難を揶揄するつもりだったのだろう)。後年、1917年に単行本として刊行されるさい、この作品は『火星のプリンセス』と改題され、作者名も本名のバローズとあらためられた。
 第1作の好評にカをえたバローズは、ひきつづき翌1913年の1月号から5月号にかけて同じく〈オール・ストーリー〉誌に『火星の女神イサス』を発表し、さらに勢いに乗って1913年12月号から1914年3月号に第3作『火星の大元帥力ーター』を執筆して、当代の人気作家としての地位を確立した。以来バローズは1941年までジョン・カーターを主人公とする火星シリーズの連作をつづけ、現在、これらの作品は全11巻の単行本にまとめられている。
 バローズが第1作『火星のプリンセス』を発表した当時は、サイエンス・フィクションという概念はまだ成立していなかった。しかし地球と火星を舞台にした雄大なスケール、怪奇冒険小説のスリルとSF的興味が渾然一体となったその無類のおもしろさは、いわゆるスペース・オペラの典型を確立したものとして、1920年代のSF興隆とともに多くの後継者を生むことになった。歴史的に見れば1923年、怪奇小説とSFを中心とした『ウイアード・テールズ』誌が創刊され、『火星シリーズ』の続刊と平行して、1926年にはSFの父、ヒューゴー・ガーンズバックによる世界最初のSF専門誌『アメージング・ストーリー』が創刊、SF界はがぜん活況を呈する。 1928年には同誌上にE・E・スミスの『スカイラーク・シリーズ』とフィリップ・ノーランの『バック・ロジャーズ・シリーズ』が連載され、ジョン・カーターの後輩はつぎつぎと大宇宙に飛び出していった。1930年ハリー・ベイツによる『アスタウンディングSF』誌の創刊により、SF流行は一つの頂点に達し、スペース・オペラの舞台も太陽系字宙からさらに銀河系宇宙へ、さらにアンドロメダ星雲へとその現模を拡大していく。いうなれぱ バローズは、この絢爛たるスペース・オペラ時代の閉幕投手の役割を演じたといえよう。

 バローズは『火星シリーズ』と並行して同じく有名な『ターザン・シリーズ 』二十数冊を、さらに金星や月や地球内部 を舞台にしたSF、ミステリ、ウェスタン、冒険小説など、広範な分野で全部で70冊近い長短編を書き、娯楽文学の領域ではもっとも熱狂的な、国民の全階層から愛読されるアメリカ随一の人気作家となった。デュマの『三銃士』や中国の『水滸伝』あるいは『西遊記』、またドイルの『シャーロック・ホームズ』のように、その国民が青少年時代から愛読し、さらに老境に至って再読三読する英雄的な国民文学ともいうべきものがある。アメリカにおいてそれを求めれば、まずこのバローズの諸作であろう。そして国民文学の魅力は、すなわち主人公(ヒーロー)の魅力に通じる。地球から単身、火星へ飛来し、妖怪変化のようなBEM(宇宙生物)を相手に縦横無尽の活躍をし、逆境にあって屈せず、義に厚く情にもろい英雄ジョン・カーターの魅力を抜いて『火星シリーズ』を語ることはできない。
 宇宙活劇(スペース・オペラ)の本質が西部活劇(ホース・オペラ)と同じく、ピカレスク・アドベンチュア・ロマンス(悪漢退治の冒険ロマンス)にあることはいうをまたない。したがって可憐な美女と悪玉と、男の中の男ともいうべき主人公(ヒーロー)という三者の図式は18世紀以来、不変のものである。この図式に立つ限り、そこには常に健康な息吹きがある。あとは作者の腕しだいだ。『火星シリーズ』全編を貫く作者の驚嘆すべき想像力、たくまざるユーモアと巧みな構成、効果的な伏線と強烈なサスペンス、要するに作者バローズは天成の物語作家であり、その筆の先から生まれたジョン・カーターは、いまや不朽の人間像(ヒーロー)として、ダルタニアンや孫悟空と肩をならべる存在となっているのである。三銃士を知らないフランス人がいるだろうか? 孫悟空を夢みなかった中国の(そして日本の)少年がいるだろうか? それと同じようにジョン・カーターと無縁な英語国民はいないだろう。『火星シリーズ』はたんなるSFの枠を越えたSF的国民文学なのだ。作者のちょっぴり古風な、ほほえましいロマンティシズムを笑うことはやさしい。しかし、それは近代文学に毒された不 幸な見方ではないか? 後代の吹けば飛ぶような自意識過剰の作中人物たちにくらべれぱ、ジョン・カーターはいわずもがな、彼とのあいだにみごとな男の友情を育んだタルス・タルカス、さらには火星のキャロット、ウーラ一匹をとりあげてみても、どれぽど強烈な印象を読者にあたえることだろう――作者がウーラの描写に費しているページは、よくよく考えてみると、きわめてわずかなのだが……。
 バローズは1875年シカゴに生まれた。父親は南軍の少佐で、彼もその血を引いて生来の軍人好きだったが、職業軍人にはなれず、1900年に結婚して三児をもうけ、1912年に処女作『火星のプリンセス』で成功を収めるまでは事業に失敗し、さまざまな職業を転々として辛酸をなめた。作中人物というものは多かれ少なかれ作者の分身である場合が多いが、バローズとジョン・カーターにも多分に共通点が見いだせる。それは戦争好きで活動的精力的な性格である。第二次大戦勃発とともに、彼は66歳の老齢にもかかわらず志願して、ロスアンゼルス・タイムズの特派員になり、ブーゲンビルからマリアナ作戦に参加して壮者をしのぐ活躍をみせた。B29に同乗して爆撃にも直接、参加したという。きっとバローズは、宇宙艦隊を指揮して敵国に爆弾の雨をふらせる火星の大元帥ジョン・カーターになったつもりで、武者ぶるいしていたことだろう。1950年3月75歳で没した。
 以下に、SF作家兼評論家リチャード・A・ルポフの『バルスーム――バローズの火星幻想』(1976年)から、その一部を引用する。

 バローズと同時代に書かれたあの膨大な量のパルプ・フィクションが、忘れられるべくして忘れられたというのに、なぜ彼の作品には、これほどまで永続的な人気があるのだろう? この男の作品、特にこの11巻の火星シリーズには、どんな魅力があるのだろう?
 第一に軽視してならないのは、火星物語はそれが持つ、いくたの欠点にもかかわらず、依然として第一級の、手に汗握る冒険小説であるという事実である。アクションにつぐアクションの連続だが、そのペースはほとんどいつも快調で、鮮明にいろどられ、愉快なほど異国的である。(中略)
 第二に火星の物語には神話のような真実性と極度の緊迫感と素朴な誠実さといった面がある。これがバローズの作品よりもっと洗練され、しかも技巧的な凡百の作品が及ばぬ魅力の世界を火星シリーズにあたえているのだ。(後略)
 バローズはただ読者を楽しまぜるつもりで、この物語を書いた。すくなくとも本人はそう公言した。しかし彼は当初の目的以上の成果を達成したのである。

第2作『火星の女神イサス』

 バローズが火星シリーズの第1作に相当する原稿『デジャー・ソリス、火星のプリンセス』 Dejah Thoris, Princess of Mars を〈オール・ストーリー〉誌に売り込み、編集長のトマス・二ーウェル・メトカフから最初の好意的な返事をもらったのは1911年8月24日のことだった。メトカフはこの手紙の中で、作品が全体としてはすぐれていることを認めながらも、冗長な箇所をカットして、物語にもっとスピード感をあたえることを勧めた。この忠告に従ってバローズは原稿をリライトし、決定稿をふたたびメトカフ宛に送付した。同年11月4日、メトカフから、400ドルで雑誌掲載権を買う旨の、バローズにとっては終生忘れられぬ返事が到着した。いよいよ作家バローズの誕生である。このT・N・メトカフとERBの出会いは宿命的なもので、もしメトカフと遭遇していなかったなら、彼は作家志望を断念して別の職業に移っていたかもしれないのである(もしそうなっていたら、現代の読者は70冊におよぶ彼の全作品を失っていたことになるわけだ)。その原稿は『火星の月の下で』と改題されて、1912年2月号から7月号にかけて、〈オール・ストーリー〉誌に連載されたが、連載完結の7月に、早くもバローズは第2作『火星の女神イサス』の執筆を開始している。これはむろん『火星の月の下で』の好 評と、編集長メトカフの要請によるものであり、ここに初めてバローズは、売れる当てのない原稿を書きつづけるという経済的不安から解放されたのである。
 本書のテーマは、形の上では失われた恋人デジャー・ソリスの探索であるが、実はそれにもまして、火星という一つの惑星全体を太古の昔から精神的に支配してきた邪宗、女神イサスを頂点とする強大なホーリー・サーンの一大宗教組織を、ジョン・カーターが打倒するのが全編の主題であり、デジャー・ソリスの救出は第3作へと持ち越されることになる。第1作に引き続き、本編でもバルスームの風俗・習慣・宗教・文化・歴史・動植物から社会生態学に至るまでの基礎知識がつぎつぎに語られて読者を楽しませてくれるが、イサスの宗教組織のほかにとくに興味深いのは、オメアン海という地底世界の設定と、374頁に始まる〈生命の木〉の物語であろう。後年のペルシダー・シリーズは全編が地球の地底世界を舞台にした作品であり、『月のプリンセス』も月の地底世界を舞台にしているが、彼の地底世界好みが、最初期の本書に早くも表われているのは興味深い。
 作者が現在のバルスームの支配種族を赤色人にしたのは、たぶん火星の別名、赤い星からの連想であろうが、生命の木の話は、黒色人こそが火星上のファースト・ボーン(最初に生まれた種族)であり、この黒色人と現在では死滅したと見られる(実は辺境に存在しているのだが)白色人、黄色人の三者の混血によって誕生したのが赤色人だとされている。
 黒色人に対するバローズの評価は、白色人であるホーリー・サーンのそれよりもはるかに高い。「身長は2メートル近い大男たちで、顔立ちは彫りが深く、すばらしく美しい」(355頁)「ファースト・ボーンは働かない。男たちは戦う。それが神聖な権利であり、また義務なのだ。女たちはなにもしない。絶対になにもしないのだ。奴隷たち(白色人)が彼らのからだを洗ってくれるし、着物を着せ、ご馳走をつくって食べさせてくれる」(429頁)「われわれは生産に従事しない種族で、しかもそのことを誇りにしている。働いたり発明したりすることは下等動物がやる仕事で、下等な連中はファースト・ボーンがいつまでも賛沢に、のらくら楽しく生きられるためにのみ生存しているのだ」(452頁)
 黒人と白人の社会意識と地位の完全な顛倒であり、執筆当時、つまり今世紀初頭のアメリカ社会の現実を考え合わせれば、作者バローズの皮肉と諷刺はまことに痛烈である。そしてこの諷刺は半世紀以上を経過した今日でも、アメリカでは生彩を失っていないだろうと思う。
 本書が〈オール・ストーリー〉誌に連載されたのは1922年1月号から5月号へかけてであり、単行本は1818年、マクラーグ社から刊行された。次なる第3作『火星の大元帥カーター』でシリーズ冒頭の三部作が一応完結し、第4作『火星の幻兵団』では、本編に登場したカーソリスとサビアが、ヒーローおよびヒロインとして大活躍することになる。

第3作『火星の大元帥カーター』

 火星シリーズ1、2巻の成功によって、作者バローズはその続編の執筆を〈オール・ストーリー〉誌の編集者から督促されることになった。特にデジャー・ソリスが生死不明のまま最後を迎えた第2巻の読者からの要請も激しいものがあった。そこでバローズは1913年6月7日に筆を起こし、擱筆したのが7月8日、正味1箇月という短期間のうちに、文字どおり一気呵成に本書を書き上げたのである。原稿当時の題名は『へリウムの王子』The Prince of Helium であったが、同年12月号から翌1914年3月号にかけて〈オール・ストーリー〉誌に連載された時には『火星の大元帥』と改題された。単行本として出版されたのは1919年。
 火星シリーズ全作の中では冒頭の1、2、3作が三部作を成している。すなわち、カーターの火星到着、デジャー・ソリスの誘拐、彼女の救出という三段階で、ここでヒーローとヒロインは波潤万丈の冒険の果てにハッピーエンドを迎える。この三部作が、ERBの全作品中でも最高の間然するところがない名作であることは、すでに定評がある。そして作品の完成度があまりにも優れているところから、もしバローズが火星シリーズを冒頭の三部作だけに留めておいたなら、SF史上における彼の評価はもっと上がるのではなかろうかという逆説的な仮定、というか設問が生じてくるゆえんでもある。事実、『へリウムの王子』と題した原稿には、「ジョン・カーター最後の火星物語」 The Last of the John Carter Martian Stories という副題が添えられていたところから見て、作者自身も、当時はそのつもりでいたのだろう。しかしシリーズとしての人気が高まるにつれて、読者の慫慂黙しがたく、延々全11巻の大河シリーズへと発展することになってしまった。冒頭の三部作が傑作中の傑作であることは、誰しも異論のないところであろうが、しかし、だからといって後続の巻を無視してよいものかどうか。
 例えば次回の第4巻では、ERBの想像力が生んだ傑作の一つ、精神の念力から生じたロサールの幻の弓兵隊が大活躍するし、第5巻では、頭と胴体がそれぞれ別箇の存在であるバントゥーム族という怪生物が主役を演じる。いずれも一読して、忘れがたい印象を残す名作であり、着想の妙と話術の巧みさについても、三部作に比べていささかの遜色もない作品である。
 ところで、ERBの国際的な評価を示す一例として、つぎの事実をお伝えしょう。第二次大戦後にアメリカ本国ではバローズの全作品が爆発的にリバイバルしたが、時を同じくして1960年代の初めに、オクスフォード大学出版部から国語教科書用テキストとして発行されている《ストーリーズ・トールド・アンド・リトールド》という権威あるシリーズの中に『火星のプリンセス』がいちはやく収録されたのである。ちなみにこのシリーズに収録されている作家は、ディケンズ、シェイクスピア、デフオー、スティヴンスン、ドイル、ウェルズ、サバチニといった錚々たる顔ぶれである。

 なお、本件のタイトルについて一言したい。Warlord ウォーロードというのは、辞書によるとカイゼル・ウィルヘルム二世当時のドイツの将軍とか、中国の督軍とかいう訳語が載っているが、どうも日本語としてはしっくりこない。ふつうの将軍ならGeneral ジェネラルでこと足りるだろう。日本的な語感からすると、まず戦国大名、封建領主、ついで征夷大将軍という言葉が浮かんでくる。征夷大将軍は逆徒征伐の総大将として兵馬の権を握り、鎌倉時代以降、代々の政権も執った武門最高の称号である。ただ「征夷大将軍ジョン・カーター」では、語感の古めかしさの点で、いささか抵抗がある。さらにいうならば作者バローズは Warlord ウォーロードを王者の中の王者、火星唯一の最高位として、諸国の皇帝(ジェダック)のさらに一段上に置いているのである。その点からすると、征夷大将軍は武威はあっても宮廷の最高位とはいえない。その上には左右の大臣や、太政大臣あるいは関白などがいたわけで、位階の高さの点でもものたりない。結局、旧憲法下の日本の天皇が陸海軍の統帥権を握って大元帥陛下という称号を使っていたので、それにならって大元帥という訳語をあてることにしたが、これもしょせんは便宜的なものである。後続の巻を読み進む上で、ジョン・カーターが単なる一将軍ではなく、皇帝(ジェダック)たちの上に君臨する称号の持ち主であることを、読者の念頭に置いていただきたいので念のため書き添えたしだいである(元帥というのは本来は中国語で、国軍の総司令官という意味)。
 なお今回、合本による新版の刊行に際して、シリーズの全編にわたって改訳の機会に恵まれたことは幸いであった。また編集部の小浜徹也さんにはお世話になったので、深甚なる謝意を表したい

注:この文章は厚木淳氏の許諾を得て転載しているものです。


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 10年ぶりの新刊(扱い)となった合本版火星シリーズの解説を収録した。旧版の最終的な解説をベースに、若干の手直しを加えたものになっている。旧版の解説といっても、小西宏氏の訳に厚木氏が解説を書いていたころと、自身で訳したころで変わっているものもあり、また同じ厚木訳でも改版時に手を加えたものもあって、バージョンはかなり多い。
 たとえば『火星のプリンセス』の解説にあったバローズ・ビブリオファイル関連の記述は『バルスーム』からの引用に置き換えられているし、『火星の大元帥カーター』改訳時の解説には Warlord の訳語に言及した部分は収録されていないが後続の版では追加されていた。そういった意味では、解説の方も合本決定版、ということになるのだろう

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