ERB評論集 Criticsisms for ERB


鏡明

ボクはなぜとても強い人〈ヒーロー〉の活躍する〈ハシャギマワル〉物語に魅かれるんだろう。
SFもそういう話は大好きだなあ。――
フロンティア・ストーリーとバローズ

SF専門誌「奇想天外」1978年6月号連載エッセイ

Jun.1978


 三ヵ月振りですね。連載とは、とても言えないな。責任は感じております。
 書くことがなくなったのでは、もちろん、ない。情報が多すぎて、整理のつけようがなくなったのだと思ってもらいたい。この事態がやってくるのは、もう最初からわかっていたととだし、様々な人がらも、忠告をいただいていた。でも、こいつは、言ってみれば、望むところなのだ。すでにある結論にむかってデータを揃えていくという作業はごめんだし、データの紹介で終えるのもごめんだ。データの中から、一本の糸を見つけ出していきたいというのが理想なのだが、ま、どこまでいくかね。
 普通の編集者ならば、きっとこのあたりで放り出してしまうところだろうが、この雑誌の編集長は、幸いなととに、とことん付き合ってやるよと言ってくれた。感謝すると共に、その好意に甘えさせてもらう。もちろん、読者のあなたにも、だ。

 さてと、今日あたりでバロウズは一応、終ることにしよう。一応というのは、バロウズの作品は、決着をつけることのできるものではないからで、これからも、何かの形で言及せざるを得ないだろう。まったくの話が、60年代のバロウズの復活と、その後のバロウズ・タイプと呼ばれる作品群、たとえばジョン・ノーマンの「ゴル・シリーズ」や、アラン・バート・エイカースの「アンタレス・シリーズ」そしてリン・カーターの「緑の太陽シリーズ」といったものの流行と定着といった現象は、一つの重要な謎として考えられなければなるまい。しかもそれが、ターザンではなく、ジョン・カーターの系譜であることは、ぼくには興味があるのだ。1930年代のバロウズ・タイプのライターたちについてのデータは、まあ何とかカバーできるが、40年代、50年代のライターたちについてはほとんど雀白の状態のように思える。
 たとえば、「アメージング・ストーリーズ」の姉妹誌として、1939年にスタートした「ファンタスティック・アドヴェンチャーズ」(1953年に「ファンタスティック」に吸収)を舞台にしていたJ・W・ペルキーのようなライターやその作品については、もっとデータが必要だろう。或る程度までいったら、報告することにする。
 もともとはヒーローの話をするつもりだったのが、ヒーローを切り口とするSF論みたいになり、そのままSF論に移行していくような気もしている。成り行きだ。
 アメリカ人が何度となくいじくり回している素材を東洋のはずれで洗いなおす作業のむなしきは何度も感じている。つい最近もリチャード・A・ルポフが「Barsoom, ERB and The Martian Vision」なんて評論を出したりするわけで、やはりあせるのだけれど、こればかりは仕方がない。もうダメージを受けるのには慣れてしまった。
 レスリー・A・フィードラーのアメリカ文学論〈アメリカ文学の原型III〉「消えゆくアメリカ人の帰還」(1968)は、その意昧で少々ショッキングな意見を示してくれる。フィードラーの名は1975年に彼の編んだ「In Dreams Awake」という歴史の流れを中心にしたSFのアンソロジーのおかげで、SFファンの間にも知られるようになった。このアンソロジーは、H・G・ウェルズからはじまり(この初期の段階にH・P・ラヴクラフトが含まれているのは注目しなければならない)、クラーク、ハインラインといったいわゆるアメリカSF黄金時代のライターたちを経て、J・G・バラードに至るという溝成をとっている。取り上げられた作品は、たとえばトム・ゴドウィンの「冷たい方栓式」をはじめ、ほとんど邦訳のある著名な作品ばかりであり、SFのアウトサイダーがSFのアウトサイダーに向けて編んだアンソロジーといった趣きをもっている。もっとも、このアンソロジーの取柄は、収録されている作品によるSF史の見方であり、フィードラーの、たとえば「SFの歴史は、その呼び名の変遷の歴史である」といったような面白い解説にある。アメリカ文学を追っていくことが、必然的にSFに言及することに連なっていくのかもしれないが、フィードラーの強引な書い方は、それを面白いものにしてくれる。(もっとも伊藤典夫の意見によれば、最近のフィードラーは、インサイダー化し、公式的な意見が多くなっているという)フィードラーの「消えゆくアメリカ人の帰還」は、その強引な論理によって、必ずしも正統的な評論としてとらえられてはいないが、逆にそれだからこそ、思いもかけぬ意見が出てくる。そしてフィードラーの〈アメリカ文学の原型〉三部作を、SFに、ことにバロウズに結びつけてみたいという欲望を感じるのは、どうも、ぼくだけではないらしい。ブライアン・オールディスは、そのSF史「Billion Year Spree」のバロウズを扱った第七章で「消えゆくアメリカ人の帰還」の一部を引用している。
「アメリカの生活と芸術に独特の性格を与えている神話についてのレスリー・フィードラーのジンテーゼに、バロウズは、ことのほかしっくりと当てはまる」
 オールディスは、まずこう切り出す。そしてバロウズの「火星シリーズ」の中で、何度も女性が性的な危機に出会うこと(もちろんそれは必ず危ういところで救われるのだが)に触れた文脈の中で、フィードラーの文章を引用している。ここでそれを再引用するのはあまり意味がないだろう。(「消えゆくアメリカ人の帰還」の邦訳、103頁が、そこにあたる)
 要するに、フィードラーは、アメリカの白人の男性の白人の女性を強姦したいという欲望を、加害者の役割をインディアン(有色人種)に与えるという歪んだ形で満足させているという事実を、過去のアメリカの小説や詩の中から導き出した上で、やがてそれがフー・マンチューのような東洋人(黄色人)、ターザンにおけるアフリカ人(黒人)というように加害者の範囲を拡大してきているということを指摘しているわけだ。
 その主張は、フィードラーのアメリカ文学論のメイン・モチーフの一つ、男と女の争い(しかも女上位の)といった観点の流れの上で理解されるものだが、オールディスは、それをバロウズの「火星シリーズ」における緑色人、赤色人、黒色人といった様々なカラーの肌の種族たちの存在そのものに結びつけている。ただし、オールディスは、フー・マンチューの作者、サックス・ローマーが英国人であることを取り上げ、白人の男性の有色人に対する性的な恐怖感は、英国にも存在するとやってのけたわけで、この言及の仕方一つで、オールディスのフィードラーを取り上げた意味は、少々理解しがたくなるのはまちかいない。
 オールディスのバロウズに対する評価の方向は、要するに、異星の世界に様々な肌の値の人種が生息しており、そこで繰り底げられる冒険物語といったことである。SFの源流をヨーロッパ文明に求めるオールディスの立場としては、バロウズをその程度の評価のレベルにとどめておくのは当然だが、ぼくに言わせれば、アメリカSFの基本的な路線の構築としてのバロウズは、ウェルズよりも重要だと思えるのだ。
 それ故、オールディスの取り上げたフィードラーの引用は、ぼくには的外れのように思える。フイードラーの「消えゆくアメリカ人の帰還」で最も重要な指摘は「西部ものの中心は見知らぬ土地との対決ではない。(それだけなら、北部の文学しか生まれてこない)。西部ものの中心はインディアンとの遭遇――われわれにとっての新大陛を古くからの住処としてきたまったくの見知らぬ人種、インディアンとの遭遇である」ということなのだ。
 つまり、それはフロンティアは空間的なものではなく、インディアンという他の種族の存在によって規定されることになる。「インディアンのいないフロンティアは存在しない」ということなのだ。1893年、フレデリック・J・ターナーの発表した「アメリカ史におけるフロンティアの意議」という論文は、初めてフロソティアの意味を明確にしたもので、アメリカそのものを変えるほどの影響力を拷ったものとされているが、そこでターナーはフロンティアを「野蛮と文明の接点」として定義している。ターナーのフロンティア理論(というよりは仮説という方が適切かもしれない)は、アメリカの発展はフロンティアの西漸であり、アメリカで最も重要な地域は西部であり、そのフロンティアが生み出したものがアメリカの社会を形成したということを骨子としている。もちろん、この程度の説明では、何も説明しないのも同じかもしれない。だがフロンティアにまつわる論議を納得できるまでやるのもまた無理というものだ。このあたりで、お茶を濁しておく。
 ターナーのフロンティアは、アメリカがヨーロッパ旧大陛とは異なる世界を明確化しただけではなく、文明の概念を持ち込むことで、自然礼讃に襖を打ち込んだ。ターナーのフロンティア仮説は、多くの論議の対象となり、現在ではすでに死に絶えたものだという印象は強いが、そう短絡的に理解されるべきものではないようだ。
 どちらにしろ、フロンティアという概念が二十世紀以降のアメリカの文化に果たした役割は、想像を越える。
 フィードラーのフロンティアは、そうしたターナー流のフロンティアか基本的に空間的なものであったのに対して、より精神的なものということになる。そしてそれをインディアンの存在に戻すことによって、バロウズの「火星シリーズ」の意味するものは、より明確になると思える。バロウズの「火星シリーズ」が(どうあっても、ウェスタンを中心とする初期のダイム・ノベルズのフロンティア・ストーリーの伝統の上に存在していると言えるのは、それがフィードラーの言う「フロンティア」に展開される物語だからだ。
 つまりバロウズの「火星シリーズ」は、ストーリー的にも、構造的にも、まさに「フロンティア・ストーリー」なのであり、ジョン・カーターもまたフロンティア・ヒーローなのだというこれまでのぼくの意見と、うまく適合することになる。
 前回、ぼくはO・E・クラップのヒーローのカテゴリーに従って、アウト・ローからインサイダーへと移行していく(そして完全には移行できない)ジョン・カーター像に触れたが、白人のフロンティア・ヒーローとしてのジョン・カーターは、それと角度こそ違え、同じものを示すことになるだろう。フィードラーの言う「フロンティア」の意味を、自分勝手な方向へ歪めることになるかもしれないが(それは他人の意見を引用し、利用する際には、つきものの危険であるし、時には誤まりですらあるだろう。けれどもそれを避ける方法は思いつかない。できるだけの努力をするというだけだ)、「フロンティア・ヒーロー」は、言ってみれば、インディアン的なライフ・スタイルと思考を持つ白人がその原型ということになるだろう。そしてそれは白人が、インディアンのいるフロンティアに進出することで、はじめて出現するタイプのヒーローなのだ。
 フィードラーの指摘によれば、ヨーロッパ旧大陸には、西方の概念が存在しなかったという。それはあの大陸の西方は、ただ海が連なっているだけであり、そこには何も存在しないのだということを意味する。コロンブス以前の(もちろんヴァイキングは除外する)ヨーロッパ人の地理上の意識からは、西という方角は欠落しており、西にあるものは神話、伝説上のユートピアであったのだ。コロンブスにしても、事実上、彼は西の彼方の土地を求めて旅立ったのではなく、東の国を求めて出かけたのだ。それは西インド諸島、あるいはインディアンという名そのものが示している。
 アメリカ大陸の意味は、存在しない筈の大陸が、西方に存在しているということであり、しがも、その土地には、キリスト教とは無関係に幸せに暮らす種族がいたということなのだ。これは明らかに、旧大陸を文配していたキリスト教的な世界観にとっては、恐るべき衝撃であった筈だ。ジェイムズ・ブリッシュが、1958年に、こうした事実とほとんど同じテーマのもとに「悪魔の星」を書いているが、それもまた一種のフロンティア・ストーリーと考えて良いかもしれない。
 現実に根ざしたフロンティア・ストーリーにとって、西方という方位は、ことの他重要であるわけだが、それをSFの形で消化した場合、方位は欠落し、そこにインディアンの存在だけが残るということになる。そうした観点から見るとすれば、1959年のヒューゴー賞を得た「悪魔の星」とバロウズの「火星のプリンセス」との差は、ほとんどないということになるだろう。それほ共にフロンティア・ストーリーの枠で区切りをつけられることになるのだから。
 バロウズの作品が、ウェスタンを火星に移し変えただけなのだという意見は、多く、否定的に用いられるが、それを肯定的に見ることもまた可能なのだ。「火星シリーズ」を注意深く読んでいけば、話の進行が、未知の領城の発見とシンクロナイズされていることがわかるだろう。以前、ぼくはそれをこの作品群がフロンティア・ストーリーであることの証しだと理解していたのだが、実はその未知の領域という空間的なものの発見は同時に異なったカラーの人種、つまり緑色、赤色、黒色、白色、黄色のインディアンたちとの出会いでもあるということなのだ。「火星シリーズ」の初めの三作が、最も生気を放っているというのは、新たな種族の発見という形でのフロンティアの征服が次から次へと成されていくからだとも言えるのではなかろうか。そして新たなインディアンを見つけることのできなくなったそれ以降の作品では、ついにフロンティアを火星もまた失なったことを示していると思える。ジョン・カーターの物語が、木星という新たな世界へ向かうところで終ってしまうのは、まさに当然だったというべきだろう。
 バロウズの作品が、アメリカの小説の基本型を受け継ぎ、その中での位置を占めているのであってみれば、それをウェスタンの火星版として非難するのはおそろしく的外れな評価ということになる。フィードラーの意見を基礎にすることは、少々不安ではあるけれども、バロウズの「火星シリーズ」は、まさにああでなくてはならなかったのだといっておきたい。それはウェスタン=フロンティアストーリーであることに、最も重要な価値を持っていたのだ。
 バロウズの名をこのところ良く聴くようになったが、それが「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスに端を発しているように思える。そしてまた「宇宙からのメッセージ」の深作欣二も、バロウズの名を口にしている。最後は、そのあたりのことに簡単に触れておくことにしよう。
 ルーカスが、「スター・ウォーズ」に関連して、バロウズの名を持ち出したのは、「スター・ウォーズ」が科学をほとんど無視したファンタジイであることを強調したいからであるのは明らかだ。それはルーカスが「スター・ウォーズ」のルーツとして、「フラッシュ・ゴードン」や「バック・ロヅャース」を挙げ、そのまた原形として「火星シリーズ」を拳げるということからも明らかだろう。けれども、それはフロンティア・ストーリーとしての見方ではない。言ってみれば、第三巻以降のブォーミュラー・フィクションとしての「火星シリーズ」に焦点が合っている。深作欣二のバロウズヘの言及もまた、科学を無視するのだという感覚の現われなのだ。もちろん、この両者の発言の背後にある重さの差はあるにしろ、この一致は、まさに面白いものと思える。
 ルーカスは、バロウズをもっと逆のぼるならばE・L・アーノルドの「火星のガリバー」にぶつかると言ったという情報がある。「火星のガリバー」がバロウズの「火星のプリンセス」の原型であるという説は、ここまで一般化しているのかと、驚かされたわけだが、逆に言えばそこで割り切っておくことができるのは、とてもうらやましいと思える。非サイエンス・サイエンス・フィクションの系譜が、そこに見ることもできるだろう。けれども、アーノルド以前の作品にもバロウズ的な世界が存在している可能性があることを、ぼくは前に言った筈だ。ギュスターヴ・W・ポーブの「Journey to Mars」がそれだ。この作品にも多くの研究家が、バロウズとの類似を指摘している。
 この作品をいつか紹介すると、ぼくは言っておいたが、ヒューペリオン版のリプリントを手に入れたので簡単に内容を示しておく。一八九四年の出版だから、アーノルドよりも約十年、バロウズよりも二十年近く以前ということになる。しかもアーノルドがイギリス人であるのに対し、ポープはアメリカ人であるのだから、バロウズが読んだ可能性は、こちらの方がより強いとも言える
だろう(ついでだか、アーノルドの「フェニキア人のフラ」のリプリントが、一九七七年に Newcastel Pablishing Company Inc. から出版されている)。
 アメリカ海軍の大尉フレデリック・ハミルトンは、一八九一年、南極大陸の探険に出発する。彼らはそこで遭難するのだがハミルトンほかろうじて生き伸びる。そしてハミルトンは、同じく海で遭難していた若者を助けることになる。それが、実は火星人の王子であり、その礼として、ハミルトンは火星に招待される。
 原書では、ここまでで、百頁近くが費されている。トータルで五百四十頁程だから、その五分の一が、南極でのハミルトンたちの探険の話にあてられているわけだ。しかも、それは南氷洋の驚異という視点からでも、その冒険ということではなく、まさに科学的に(もちろん当時の科学の範囲ということだが)探険の様子を描写することを主眼としている。体裁としては、この作品は十九世紀のサイエンス・フィクションなのだ。
 ポープのこの作品のイントログクションは、おそらく作品そのものよりも有名だろう。なぜならば、そこで「サイエンティフィック・ロマンス」は、これからの文学の主流となるであろうと宣言しているからだ。いわゆる大衆小説は「社会小説」にとって変られ、それはやがて「サイエンティフィック・ノヴェル」に変っていくだろう。という意味のことを述べている。そしてまた、「我々のもの以外の世界は、哲学者、詩人、ロマンチストたちにとって、魅惑的な、豊かな世界を提供してくれるだろう」としている。
 それはそのまま、宇宙を舞台にしたSFの魅力としてもかまいはしない。そしてポープが、それを科学的な思考を元にして、造形しようとしたことは、重視すべきだ。つまりポープは、科学を中心に置いて、そこにバロウズ的なストーリーを展開したということになる。ただ、問題は、そのストーリーの部分が、科学の描写の内に呑み込まれていることだ。その方法は、言箏ってみれば、ガーンズバックの「ラルフ124C41+」に近い。それは、主人公たちが、火星に向かうにも、当時宇宙空間に充満しているとされていたエーテルを利用した反重力動力で駆動される宇宙船を便用している。さてと、話をストーリーに戻す。
 火星へ連れていかれたのは、主人公のハミルトンだけではなく、探険船の乗組員の一人であるジャックもいっしょだった。ジャックはニュージーランドの原住民であり、言ってみれば、ロビンソン・クルーソーとフライディというところだろう。主人公プラス忠実な部下というパターンは、この時代の作品には多い。
 そしてハミルトンは、火星(それはアリオス・ヴイジュロジャと呼ばれる)で、アルトフォウラ王子(ハミルトンが救った王子だ)の妹のシュラミア王女と出会い、或る時、海に落ちた彼女の生命を救う。定石どおり、二人は恋におちる。ところが、太古に火星に移住してきた冥王星人の子孫であるディアヴォジャー王子は、それを心良く思わず、ハミルトンに決闘を申し込む。ハミルトンは、ディアヴォジャー王子と剣を交えるが、結局は、王子を打ち負かす。しかし、王子はそれ以来、ハミルトンたちに恨みを持つようになる。
 そして或る日、巨大な流星が、火星を襲う。主人公のハミルトンは、流星の影響が、地球に及ぶことを知って、地球に戻る。ところが、その隙に乗じて、ディアヴォジャー王子が、シュラミア王女たちの国に攻撃を開始する。とまあ、こういうストーリーになっているわけだ。そして結末は、王女、危うし! というところで終っている。
 サム・モスコウィッツは、ポープの火星に黄色人、赤色人、青色人という人種が住んでおり、しかも地球より優れた文明を持ち、争いに剣を使用するという点の他に、この次にどうなるだろうかというオープン・エンドの終り方を取り上げて、バロウズの作風との類似を指摘している。この続きは、一八九五年の「Journy to Venus」に持ち越されることになるのだが、ポープの意図は、太陽系の惑星を、この調子で順番に遍歴する物語を書くことにあったようだ。それは結局、この二冊で中絶してしまうのだが、もしもポープが、すべてを書き上げていれば、こいつは少々、面白いことになっていただろう。それはスペース・オペラ時代の開幕を早めるだけの効果はあったように思える。
 ポープのこの作品の世界は、様々な点でバロウズの火星と近いが、それはフロンティア・ストーリーの立揚からすれば、必ずしも、バロウズがこの作品に影響を受けたと言い切れるほどのものではあるまいという当然の結論に結びつく。またしても、バロウズのバルスームのルーツは謎のままでとどまることになるのだ。


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