ERB評論集 Criticsisms for ERB


リチャード・A・リュポフ

最高のスペース・オペラ

―火星シリーズ―

創元推理文庫版『火星の巨人ジョーグ』特別付録「創元推理コーナー5」収録記事

Mar.1964


 『火星の巨人ジョーグ』の出版はつぎのような数々の理由によって、一つの歴史的事件と言えよう。
 まず、明らかに、これはE・R・バローズの火星シリーズ「11番目の作品」として、長いこと鶴首して待たれていたものである。作者バローズの生存中最後に出版された火星シリーズ第10巻、「火星の古代帝国」が世に出てから16年の間、彼の多くの愛読者は、残り2つのバルスームの冒険が1本にまとまるのを常に待望していた。そして本書によってついに2つの冒険はバローズの多数の読者と讃美者の前に登場したのである。
 第2の理由はその表題にある。原題 John Carter of Mars(火星のジョン・カーター)は、火星シリーズに付せられるにはごく白然な表題であるが、バローズ自身これを表題として用いたことは一度もなかった。それは、2つのまったく異なる児童読み物と漫画雑誌を含めて、改作された多くの火星物語には用いられてきたが、成人向きの作品の表題としては一度も使われなかったのである。
 『火星の巨人ジョーグ』に収録されている2つの短編小説に関しては、それぞれが物話の内客自体とは別に、おもしろいいきさつを持っている。
 「ジョン・カーターと火星巨人」(簡単に「巨人」)は、最初アメージング・ストーリーズ誌の1941年1月号に掲載され、ただちに賞賛の嵐をもって迎えられた。しかし、多くの読者がこの作品の作者について疑間を抱き、掲載誌に説明を要求してきたのである。しかし編集長R・A・パーマーは作者について不審の点はないと太鼓判を押した。読者の疑問の理由は主として2つの点にあった。
 1つは、バローズに心酔する多くのうるさ型の読者が、この「巨人」の舞台と、バローズがこれまで火星シリーズで構成してきた虚構の世界とが抵触することを発見したのである。とくに、「巨人」には3本足のねずみが登場するが、バローズは『火星のチェス人間』で火星ねずみ、アルシオを「狂暴で、いやらしく……多くの足を持ち、毛は生えていない……」と、きわめて写実的に描写しているからである。
 同様に、「巨人」の舞台となった架空の地理においては、他の作品では砂漠や沼地しかないとされた地域に都市が置かれ、しかもそこには、バローズの他の作品には出てこない動物や装置が、なんの説明もなく登場している、と論議の的となった。
 「巨人」に対するもう一つの批判は、火星シリーズは慣例としてこれまで一人称で語られてきたがこの「巨人」では三人称で述べられている、という点にあった。しかしこの指摘は、火星シリーズの第4巻第5巻の2冊については当てはまらない。第4巻の『火星の幻兵団』は典型的な三人称スタイルで語られているし、5巻目の『火星のチェス人間』は、ジョン・力ーターからこの物語の内容を作者バローズが聞いたいきさつを、バローズ自身が一人称で述べるという序文で始まっている。
 『火星のチェス人間』の物語そのものは三人称で語られているが、一人称の序文によって、「巨人」に対する異議の鉾先は鈍ってくる。さらに、『火星の幻兵団』の場合となると、「巨人」にたいする〈一人称・三人称問題〉はまったくとるに足りないということがわかる。
 本書『火星の巨人ジョーグ』の出版計画に際して、わたしは一度、「ジョン・カーターと火星巨人」に対する非難の当否を究明したいと思った。そこで、わたしはR・パーマー氏に直接手紙を出し、腹蔵なくつぎのことを問い質した。すなわち、(a)この作品は実際にエドガー・ライス・バローズによって書かれたものか、(b)もしそうであるならば、パーマー氏なり誰か他の人なりが出版される以前に原文に手を加えたかどうか、(c)もしそれがE・R・バローズによって書かれたのでなければ、誰がこの作品を書いたのか、と。
 同時に、作者の子息であるハーバート・バローズ氏にも手紙を書き、ご尊父の書類と記録を調べて、できることなら(a)ご尊父が「巨人」を書いたかどうか、(b)もし書いたのなら、雑誌に掲載されたものと比較するために原文のコピーが残っていないかどうか、を確認してくれるように依頼した。
 パーマー氏の返信がまず届き、その中で彼は、(a)作品は実際にバローズによって書かれたものであり、(b)出版以前には誰も原文を変更していないと告げた。残念なことに、パーマー氏の言によれば、原稿はアメージング・ストーリーズの版元であるジフ・デイヴィス社のファイルの中に保管されていたが、数年後、書類整理の際に破棄されてしまったということである。
 H・バローズ氏からの量初の返事もこれと同様、謎めいたものであった。すなわち、E・R・バローズ社(法人)がジフ・デイヴィス社に『火星の巨人ジョーグ』を売り渡した旨の記録は見つかったが、E・R・バローズのノートを調べたところ、作者は通常、作品の起稿・脱稿・校正の日付けを丹念に記しているにもかかわらず、肝心の「巨人」に関する記人事項はなにも発見されなかった、というのである。
 こうなると、「巨人」の作者につきまとう疑惑を多かれ少なかれ認めざるを得ないが、さらに一通、H・バローズ氏からの手紙が届き、わたしはそれを読んで一驚し、かつ喜んだ。とうとう謎が解けたのだ。ハーバート氏は父上の仕事の記録と個人的な記録の調査を続行し、かつ、バローズ家の人々とその問題を検討したが、そこからまとめ得た話はつぎのようなものであった。
 1940年、児童向けのターザン・シリーズを出版して大成功を収めたホイットマン出版社は、E・R・B(バローズの略)に、ジョン・カーターを主人公とする「ビック・リトル・ブック」のための作品を依頼した。「ビック・リトル・ブック」とは子供向けのシリーズ物で、すこぶる厳密な体裁をとっている。作品の長さは1万5000字に決められており、各ぺージは交互に文章と絵とからなり、対向ぺージに描かれている場面を反対側のぺージで図示できるような構成であった。
 エドガー・ライス・バローズは、そのように厳格な体裁のシリーズ作品を書くことを渋り、この本のイラストレイターでもある息子のジョン・コールマン・バローズ氏に創作にあたって協力を依頼した。その結果、本質的には『火星の巨人ジョーグ』に類似した作品が、本書の表題と同じ(火星のジョン・カーター)なる表題でホイットマン社から出版されたのである。
 ちょうどその頃、アメージング・ストーリーズ誌のレイ・パーマー氏が、雑誌の呼び物にするために、ERBの新しい火星物をほしがっていた。そこで、まだ発表されていなかった例の合作をもとにして、バローズがそれを約五千語分長くし、おとなの読者のために程度を高くし、最終的に、「ジョン・カーターと火星巨人」を脱稿したのである。
 この長い方の原稿はアメージング誌に載り、短い方はホイットマン・ブックから刊行された。本書に使用された原作は、アメージング版である。
 さて本書の第2の作品――「木星の骸骨人間」には「巨人」にまつわるような間題は少しもない。「巨人」に比べてみると、1943年2月にアメージング誌に発表された「骸骨人間」は、読者から法外な賞賛以外のものはなにも受けなかった。その表題は火星シリーズとしては、奇異な感を与えるだろうし、実際、「骸骨人間」の主たる活躍の舞台は火星ではなく、木星である。しかし、主人公はジョン・カーターであり、ストーリーは基本的には火星シリーズの一部であるから、本シリーズに収められていても少しもおかしくはない。
 バローズはこの「木星の骸骨人間」を、相互に関連した、おそらく4つの中編からなるグループの開幕のエピソードとして使うつもりであったと思われる。つまり『火星の古代帝国』におけるジョン・カーターや、『金星の火の女神』(金星シリーズ(4))におけるカースン・ネーピアのような形式になるはずであった。この連作の形式は、バローズが1940年代の初期に使って大成功を収めたものである。
 しかしながら、太平洋戦争における従軍記者活動はバローズの作品数を著しく減らし、その数はほとんどゼロとなってしまった。しかも、戦後、健康を害したERBは、再び以前のぺースを回復するにいたらなかった。その結果、ジョン・カーターの木星冒険の続編は、二度と書かれないで終わった。とはいえ、「骸骨人間」はそれなりに完結した冒険物語であり、しかもすぐれた作品である。
 その続編を書くこと(あるいは少なくとも夢想すること)は、バローズ・ファンにとって年来、こよないなぐさみとなっており、本書の読者もその楽しみに参加するよう招かれているのである。
 ところで、「木星の骸骨人間」の序文は、本書で初めて公表されるものである。21年前、この作品が雑誌に掲載された当時、編集者は序文を読者にとって邪魔になるだけだと、考えたのかもしれない。“すぐ物語にはいる”という政策がなににもまして、より大きなコマーシャル・アピールを持っていたのだろう。
 その編集者の考えは一世代前のパルプ・マガジンの読者に対しては正しかったであろうが、しかし現在の読者は、文学に関して多少なりとも、いっそうまじめな、忍耐強い見解を有しているものと仮定して、わたしは本書でこの序文を復元することにした。それは、ハーバート・バローズが、ERBの原稿の写真複写を快く提供してくれたお陰によるものである。
 もし読者が、1943年当時の雑誌の読者同様、序文を読むことなどまったく我慢できないと考えすぐに本文に人りたいとお思いなら、最初の132語はとばして読まれても結構である。わたし自身は、それを魅惑的な前奏曲であり、かつ、SF作家としてのE・R・バローズの個性を知るための小さいが、しかし興味深い手掛りであると思う。
 この作品が最終巻となった火星シリーズは、多くの読者によって、作家バローズの最大の業績と認められている。無論、彼のターザン・シリーズは映画化されて好評を博したために、いっそう有名である。また、金星シリーズやペルーシダー・シリーズの中には多くの傑作があるし、また単行本では『ムーン・メン』、『ザ・マッカー』などのすぐれた作品がある。
 しかし、それにもまして、バージニア生まれの南軍騎兵大尉ジョン・カーターが火星で繰りひろげる数々の冒険と、それに劣らぬヒーローたちの英雄的な活躍を描いたこの11巻の作品は、作者の数多い作品中最高のものであり、SF冒険小説史上、比肩するもののない存在である。
 このシリーズの最初の3巻は、本来1912年から1914年にかけて発表されたものであり、それだけで一つのまとまった叙事詩を構成している。南北戦争が終ろうとしている時、南軍の将校として従軍していたジョン・カーターは、住民のあいだではバルスームと呼ばれている惑星、火星へと、不思議な力で伝送されて行った。彼は砂漠のどまんなかに到着したが、裸一貫、武器もなく、土地の風習も状況も皆目わからず、住民の言語を話すこともできなかった(事実は住民のことはもとより、そもそも人が住んでいるのかどうかさえ知らなかったのだ。彼はまもなく獰猛な遊牧民の一隊に出会って捕えられ、奴隷にされて、遠からぬうちに不名誉な死をとげる運命にあるかと思われた。)
 ところが、並々ならぬ勇気と知恵を発揮して、カーター大尉は火星大元帥の地位に昇進し、火星の南極から北極までを股にかけて活躍し、数年間地球にもどり、やがて再びバルスームに帰って異様な人種や野獣に出会い、あるいは不思議な国々や、さらに不思議なその住民とも出会った。さらに彼は、ヘリウム(不活性ガスの名ではなく、火星屈指の大帝国の名)のプリンスの称号を得、ヘリウムのプリンセス、絶世の美女デジャー・ソリスと結ばれるにいたるのである。
 この3部作は『火星のプリンセス』『火星の女神イサス』『火星の大元帥カーター』である。これらは不朽の傑作であり、そのために多くの外国語に翻訳されているが、その中にはエスペラント語に訳された『火星のプリンセス』までもある。さらにこの『プリンセス』は、オックスフォード大学出版部から国語教科書として出版されている「ストリーズ・トールド・アンド・リトールド」双書の中にも収められている。ちなみに、この双書にはディケンズ、ドイル、シェークスピア、スティーブンスン、デフォー、ウェルズ、サバティニ、アンソニー・ホウプ、そしてノードホフとホールなどが含まれている。
 これらの作家たちは、それぞれ作風を異にするが、それでも共通して言えることは、彼らの時代を越えて永続する文学的特質を備えていることで、これが彼らの作品を英米文学の骨子の一部としているのである。この双書にバローズの『火星のプリンセス』が加えられたということは、すでに一般読者の賞賛を得ていたこの作家が、教育家や批評家からも認められ始めたことを示す、最初の重大な兆候と言えよう。
 この3巻で、カーターを裸一貫の風来坊から赤い惑星の大元帥にまで昇進させたバローズは行きづまりを感じた。物語をさらに続けるにはどうしたらよいだろう? ターザン・シリーズで同じような問題に直面した時、バローズは猿人ターザンをアフリカの土地に点在している失なわれた都市や忘れ去られた帝国といった異国情緒豊かな舞台の蜒々とつづくシリーズの中へ連れ込んだのである。
 火星シリーズでは、バローズは別の方法を試みたが、これはより大胆で、完全に成功しているとわたしは思う。まず作者の関心をジョン・カーターとデジャー・ソリスから移して、4巻目を『火星の娘スビア』(邦題『火星の幻兵団』)と名づけた。この表題の女性は、すでに『火星の女神イサス』の中で身元のあいまいな人物として紹介されている。彼女は心ならずも堕落した宗教組織の僧侶のなぐさみものとなっていたのである。
 不幸な生活からジョン・カーターに救い出されたスビアは、2巻目の終りで、デジャー・ソリスと、3人目の火星人女性、美しいが油断のできぬファイドールと共に、火星の牢獄、太陽宮の中に幽閉されてしまった。この牢獄の各部屋の出入口は、巨大な中空の岩を通して巨大な輪が回転すると向こう1年間ふさがれてしまう。3人の女性を閉じ込めた部屋が視界から消える寸前、ファイドールは恐ろしい短剣をかざしてデジャー・ソリスに飛びかかっていった。スビアは2人のあいだに割ってはいり、身をもってデジャー・ソリスを守ろうとした……納めの口上は、「あとは次号をお楽しみに」ではなく、「あとはつぎの巻『火星の大元帥カーター』をお楽しみに」というわけである。
 無論、デジャー・ソリスとスビアは次の『火星の大元帥カーター』で無事脱出するが、スビアは、さらにそのつぎの巻では単にヒロインの地位だけでなく、タイトル・キャラクターとして、デジャー・ソリス(『火星のプリンセス』のプリンセス)や、ジョン・カーターとデジャー・ソリスの孫娘『ガソールのラナ』(『火星の古代帝国』)と名誉を分ちあうに至った。『火星の娘スビア』(『火星の幻兵団』)のアクションは単にジョン・カーターの冒険の焼直しではなく、バルスームの世界に新風を送り込んだものである。この作品は新しい発明や工夫に富み、中でも傑作なのは、ロサール人が宿敵ワフーン族の侵略を防ぐために精神の念力のみで造り出す幻兵団、ロサールの弓兵であろう。
 第4巻は最初1916年に出版されたが、その後、バローズの関心は他に移り、ターザン・シリーズや、ペルーシダー・シリーズの数冊と、数点の単行本が書かれた。1922年になって火星シリーズにもどり、『火星のチェス人間』が執筆された。再びバローズの焦点は変わり、今回はガソールのガハンをヒーローとし、カーソリスの妹ヘリウムのターラをヒロインとする火星物である。この作品は単なる冒険活劇ではなく、奔放きわまりない想像力を特色としている。中でも、抜群の創造物はバントゥームの住民、ライコール族とカルデーン族である。
 この二つの人種は奇紗な共存生活を営んでおり、ライコール族は頭がなく、いっぽうカルデーン族はほとんど頭だけの存在で、進化した爪を持ち、それを使ってライコール人の胴体にくっついて、彼らをコントロールする。カルデーン人はいつでも思いのままに胴体を変えることができ、ある日男であったのが翌日には女になることさえできるのである。
 シリーズのつぎの作品『火星の交換頭脳』は、1927年にアメージング・ストリーズ・アニュアル誌に掲載され、第一次世界大戦の塹壕で死んだはずのアメリカ陸軍太尉ユリシーズ・S・パクストンが、不思議な力によって火星へ飛来し、すばらしい新ヒーローとして登場する。火星で彼は、人間の頭脳を交換する技術を完成した外科医ラス・サヴァスと共に、奇妙な冒険を経験する。愛らしい火星の娘ヴァラ・ディアはラス・サヴァスの犠牲に供されて、醜怪な女帝ザザの肉体と交換されてしまった。このあとにつづくアクションは、最後には、ヴァラ・ディアが自分の体を取りもどし、パクストン(彼はすでにバルスーム流のヴァド・ヴァロという名前を与えられている)と結婚することで終わっている。
 第7巻の『火星の秘密兵器』は、従来「科学的ロマンス」として知られていたSFの型式を、おそらく集約するものであろう。すなわち科学的状況の設定のもとに、高度のアクシヨンと冒険が繰りひろげられるが、科学的状況そのものは、物語の進展にはあまり関与していないのである。タン・ハドロンは危険と恐怖に立ち向かい、、一つの不思議な隠された郁市を探検し、あるいは美少女を虐待する気の狂った帝王に出会い、「死神」という名称しかわからぬ極刑の宣告を受け、巨大なクモの住む森を彷徨し……慨して、愉快な意気ごみで読者を楽しませてくれる。
 バローズは1934年から35年にかけて、ブルー・ブック・マガジンに掲載された『火星の透明人間』でジョン・カーターを再登場させている。この作品の特徴をなしているのは、コンピューターによる飛行艇の自動制御を予言していることで、その中にはサイズ・配置・機能だけでなく、今日実現されている電気誘導装置のプログラミングをも含んでおり、ロケットを誘導して惑星に、まず機械をつぎに人間を送ろうというものである。もし人間が乗りこんだこの種のロケットが火星に向けて飛び、そこにバルスームを見い出したら、実に愉快ではないか!
 『火星の透明人間』では、カーターと他の人物をゾダンガから火星の月サリア(フォボス)へ運ぶために宇宙船が使用されている。サリアでカーターは、バルスームヘ帰還するまでに、さらに不思議な人々と不思議な動物に遭遇するのである。
 『火星の合成人間』(1939年)は、本シリーズ最後の本格的長編小説で、再び新しいヒーロー、ヴォル・ダーを起用し、いっぽう、新たな悪戯をさせるため、ラス・サヴァスを再度、登場させている。事件は、ラス・サヴァスがフランケンシュタインばりの人造人間を作ろうとしたことから始まる。彼は成功するが、でき上がったのは怪物どもで、彼に反逆し、火星全土の征服に乗り出す。
 『火星の合成人間』は、シリーズ中でもっとも想像力に富むというわけでもなく、また最上の出来栄えというわけでもないが、それでも、なおかつ強烈な魅力を持つ作品で、サスペンスも充分あり、闘争と冒険が適当に盛りこまれていて、読みごたえのある作品となっている。
 シリーズの第10巻『火星の古代帝国』は、長編小説ではなく、4つの連作短編を集めたものである。各作品はそれぞれすぐれているが、中でも初め「ミイラの部」として発表され、単行本としてまとめられたさいに、「古代の死者たち」と改題された作品がもっともすぐれているようだ。「古代の死者たち」では、太古の昔から昏睡状態におちいっていた古代の火星人たちが少数発見される。目を覚ました彼らは、彼らの世界がすでになく、その都市も滅んだことに気づく。これは感動的な非痛な情景で、すぐれた作品に見られるさわりの個所である。
 最後は無論、本書、『火星の巨人ジョーグ』でこれは2つの物語から成り、そのうち一つは、新冒険の開幕を告げるものであったが、その続編はとうとう書かれずじまいであった。
 最後に、「巨人ジョーグ」について、つぎのことを記しておこう。20年前の雑誌に掲載されたときには、「Ed」とサインされた数多くの註釈があった。今日では、この「Ed」はアメージング・ストーリーズ誌の編集長(EDITOR)、レイモンド・A・パーマー氏を意昧するのか、それとも、エドガー・ライス・バローズを指すのか不明である。バローズは時に、自らを作者というよりも、ジョン・カーターの冒険譚の単なる編集者にすぎないと述べているからである。
 本書では、これらの註をもとの通り示して置いたので、読者は自らの好むところに従って解釈していただきたい。
 サイエンス・フィクションを、物理や化学の知識に少々尾ひれを付け足したものとしか見なさない読者や、あるいは、気まじめな社会学的設定のみをSFに求めるような読者にとっては、バローズの火星小説は満足のいくものではないであろう。
 しかし、際限もなく幻想的でエキゾチックな舞台に繰りひろげられる雄大な冒険を求める読者にとって、火星シリーズこそは、まちがいなく、この分野における最高の作品と言えるであろう。

筆者紹介
リチャード・A・リュポフは1935年ニューヨーク生まれのアメリカのSF評論家。特にカナベラル・プレス社の編集長として、戦時中絶版状態にあったE・R・バローズの主要な作品をハードカバーで復刻し、現在のバローズ・リバイバルのきっかけを作った功績者である。本文中にも言及しているように、特に火星シリーズ11巻『火星の巨人ジョーグ』はバローズの死後、このカナベラル・プレス版で初めて単行本化されたものであり、シリーズ全体を概観した本エセーは、11巻の巻頭に付されたもの。ジョン・カーターとデジャー・ソリスのファンにとっては、短いとはいえ類がないだけに好個の文献といえるだろう。なおリュポフはバローズの本格的な評伝を発表している。

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