ERB評論集 Criticsisms for ERB


武部画伯追悼特集 武部本一郎画伯を偲ぶ
依光隆『今残る、私の財産』

早川書房刊『SFマガジン』1980年10月号収録記事


 武部さんに初めてお会いLたのは、たしか1960年に入って間もなく、の頃だった。駆け出しの、植民地育ちの、やせた一匹狼だった私には一人の友人も居なかったし、武部さんはすでにまぶしい存在であった――そんな頃。だから、私は嬉しかった。武部さんの傍にいるだけで、何故かほっとして。例えば、講談社の野間文芸賞。第一回のパアティーから17年間、毎年ずうっと私は出席している。会場で武部さんの御姿を探し出す楽しみが、その理由の一つでもあった。年に一度か、多くて二度、三回お会いした記億は無いのだから。お会いして、普通の世間話をする。そして、それで私は満足。そんな私を、武部さんはただじっと眺めていて下さった。――昨年、小学館や講談社等の何処のパアティーにも、武部さんの御姿は見かけられなかった。受付の方に聞き、欠席を確認した私は、狼狽した。
 「今度、浮世絵のようなものを描いたので依光さんも見て下さい……」「依光さんは笑うだろうけど、僕は、こういう顔(日本女性の)が、好きなんだ……」重たい口調の、武部さんの声が、聞えてくる――。
 「親愛なる隆兄。親愛なるテオヘ」
 「今度の個展が挿絵等中心とされたとの事」「近来最も嬉しいしらせでありました。この挿絵の世界の喜びとか苦しさは人は知らずとも」「庶民と共にあった江戸市井の版下かき、浮世絵師達の栄光と挿絵家の喜びをこめて」「御自愛と御成功を念じつつ」「1964年2月 本一郎拝」(原文のまゝ)
 その1964年、私の最初の個展に寄せて下さった武部さんの「書簡」の抜粋。今残る、私の財産、この一冊のパンフレットには他に高村光太郎、高見順、手塚富雄、三船敏郎、野間省一、野長瀬正夫……と御名前が続き、画家名としては、33人の中で、武部本一郎さん、御一人だけでした……。


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