エッセイ Essey for ERB's world


喪われゆく民族に捧げる哀歌

written by Hide

31 Jul.1999


 〈アパッチ・シリーズ〉は現時点においては日本で紹介された最後のバローズ作品だ。この作品が紹介されたころ、日本に紹介された海外SF初のベストセラー(『火星のプリンセス』だよ!)を産み、創元のドル箱ともいわれたバローズも、売り上げが伸び悩んでいた。
 やむを得ない理由はある。その作品の大半は厚木淳らの尽力によってすでに紹介され尽くしていた。『砂漠のプリンス』、『カリグラ帝の野蛮人』といった、ひいき目に見ても水準を下回る作品まで邦訳され、むしろバローズの評価を下げていた。スターウォーズによってはじまったSFブームも膨らみすぎたが故に日本経済の行く末を暗示するかのようなバブル崩壊の予兆を見せていた。文庫本が「数十年にわたって読み継がれるもの」から「読み捨てられる廉価本」へとその位置づけを変えつつあったのもそのころではなかったか。
 ターザン・ブックスが忘れそうなころにぽつぽつ出るくらいだった80年代後半、店頭に並んだ1冊、それが『ウォー・チーフ』だった。

 バローズがウェスタンを書いていたことは知っていた。『火星のプリンセス』の冒頭や〈月シリーズ〉第3作『レッド・ホーク』など、ウェスタン風の物語で紹介済みのものもあったから、だいたいの雰囲気はわかっているつもりでもあった。しかしそれが単なる思いこみにすぎなかったことを、本書は教えてくれた。
 わたしが勝手に思いこんでいたERBウェスタンのあらすじとは、たとえばこんな感じだ――ガンマンの主人公がインディアン(ネイティヴ・アメリカンというべきか)の酋長の娘との愛情を培いつつ、別の悪いインディアンをやっつけ、さいごにはインディアンの大酋長になる。めでたしめでたし――その勝手な邪推は、大きく裏切られることになった。ウェスタンの主人公がガンマンだなんて、誰が決めたのだろう。少なくともわたしは短絡的にそう思いこんでしまっていた。時代劇の主人公が侍と決めつけているようなものだ。中にはその時代の被差別民を主人公にすることで裏側から光を当て、時代の真の姿を浮き彫りにする、そういった作品もある――カムイ伝のように。〈アパッチ〉もそういった作品だったのだと、読後、気づいた。
 『ウォー・チーフ』の主人公は白人とインディアンの混血である。孤児となった彼はアパッチ・インディアンの大酋長、ジェロニモの養子となる。黒熊(ショッディジージ)と呼ばれる彼はその独自の文化風習を持った一族の中で成長し、やがて戦士となる。
 この作品の重要なファクターはアパッチ・インディアンである。およそ感情というものを表に示さない、ストイックで誇り高い戦士たち。バローズ・ファンならばこれはバルスームの緑色人だと気づくのに時間は要しないだろう。ターザンのキャラクターにも通じる部分はあるかもしれない。だからだろうか、この物語は3人称で進行していく。もっとも、ショッディジージの台詞自身が自らを3人称で表現している。「彼は……するだろう」といった具合。これはすごい。こんな主人公キャラクターは他に例を見ないのではないか。
 さらにその成長過程で描かれる友情、愛情、民族的葛藤などは非常にすばらしい。『類猿人ターザン』でのターザンの成長過程の再話である部分もあるのだが、現実にある(あった)世界、民族、文化、歴史をふまえており、重厚さの点で数段上をいく。
 このシリーズ(といっても2作だが)の最大の特徴はこの、現実にあった世界、民族、文化、歴史をふまえているという点にある。しかもアメリカ人にとってはきわめて身近な――アメリカ大陸で実際にあった歴史、それもほんの数十年前(執筆時点)を描いている。そして視点は歴史的には敗者となった被征服民族であるアメリカ原住民の側にある。その上で、バローズはヒーローとしての主人公を設定した。ここには大いなる矛盾が発生してしまう。
 バローズの他の諸作では、主人公は活躍によって王となる。英国貴族グレイストーク卿、火星の大元帥、ペルシダー帝国皇帝、などなど。勝者となるのだ。しかし、ショッディジージはそうならない。いや、なれない。なぜならインディアンがアメリカの白人を討伐してその王となった歴史は存在しないからだ。
 ショッディジージはヒロインの愛を得ることもままならない。ジョン・カーターやデヴィッド・イネスは異世界の美女を自らの奮闘のみでいとも簡単に手に入れた。カースン・ネーピアは身分風習で若干時間を要したが、それでも臆することなく愛を得た。なぜそうできたか? 彼らは民族的なコンプレックスを持たないからだ。事情が少し異なるのはターザンだが、かれは類人猿の中で育ってはいても白人だった。しかも、英国貴族だ。素性さえ明らかにすれば所詮はヨーロッパ棄民であるアメリカ白人のジェーンよりは優位に立てる立場だった。もちろん精神的には人間になりきれない部分を持っていたからそう簡単ではなかったわけだが。
 ショッディジージはインディアンだ。両親に何らかの王家の血が流れているわけでもない。文盲のプア・ホワイトの父と誇りを売ったインディアン部族の母。ジェロニモの養子ではあることが唯一、彼の誇りである。そして、彼は自分が白人から差別されていることを知っている。よく知っている。
 『ウォー・チーフ』の最終章でショッディジージは一瞬、夢を見た。白人娘からの愛の告白。アパッチの鉄の意志は崩れ、彼女を抱きしめて唇を重ねる。しかしヒロインは彼を押しのけようとする。その表情は恐怖を表していた。一瞬の夢は覚め、ショッディジージは彼女から離れる。「白人の娘がアパッチを愛することはできない。それは正しいことだ」そういい残して彼はさる。
 これは、一見似たラストシーンを形作っている『類猿人ターザン』で、ジェーンの幸福のために自らの愛を捨てたターザンのストイックさとは異なったもの悲しさがある。
 傑作である、という理由を、少しはわかっていただけただろうか。ここに描かれているのはただ楽しめばいい血沸き肉踊る冒険活劇ではない。アクションシーンもあるが、それらは決して爽快感を伴わない。重いのだ。バローズの民族論、反帝国主義思想が色濃くあらわれてもいる。開拓期のアメリカの、光の面のみならず影の面も明瞭に書き記した、貴重な記録ともいえる。しかるに、読みやすい。そこが傑作のゆえんである。

 残念ながら本書はそんなに売れなかったようだ。冒頭に記した諸処の事情によるものが大きいのだとは思われるのだが、その結果のみによって葬り去るには惜しい作品だ。ハードカバーで合本で、残していってほしい、そんな気にさせてくれる作品である。

 『アパッチ・デビル』でショッディジージはヒロインであるウィチタ・ビリングスと結ばれるが、そこまでの過程で成長しなければならないのはウィチタのほうだった。だからウィチタは典型的な冒険もののヒロインではない。言葉遣いも汚く、田舎娘と軽蔑されたりもするヒロイン。
 ともに敗者であるヒーローとヒロイン。この、異色のヒーロー小説の、ヒーロー小説としての評価はまた稿をあらためて行うことにする。


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