エッセイ Essey for ERB's world


白肌(ターザン)と黒熊(ショッディジージ)

written by Hide

2 Dec.1999


 ターザンとショッディジージとの間にはいくつかの共通項がある。むろん、いずれもバローズが創造したヒーロー――架空のキャラクターなのだから、似通っていて当然なわけだが、ここでいいたいのは他のヒーローたちと比較してもその類似点には特異性がある、ということだ。
 バローズのヒーローたちは、デヴィッド・イネスをのぞくと幼少期に陰を持っているものが多い。中でも顕著なのが今回取り上げた2名で、彼らは数あるヒーローたちの中でも出生以前からその成長過程を語られた数少ないヒーローである。
 反乱に巻き込まれた不幸な、しかし高貴な英国貴族の子として生まれ、類人猿の中でたくましく育つターザン。同じくショッディジージもアパッチに拾われて頭角をあらわしていくが、決定的に異なるのはショッディジージには血統的には何ら優位性がないことである。彼の父は白人ではあるが文盲のプア・ホワイトで、存在自体に意味がないといってよいほどの扱いしか作中では受けていない。母親も同様。インディアンではあるが誇り高きアパッチとは比べるべくもない。これは、王侯貴族の子孫が必ずと言っていいほど登場するバローズの作品では珍しいことだ。アパッチの伝説的酋長、ジェロニモの養子である点が唯一、ショッディジージの民族的価値に輝きを与えているが、それとて絶対ではない。彼の所属するアパッチはアパッチというだけですでに誇りがあるから、ジェロニモの子であることはアパッチの一員にはいるという以上の意味はないし、白人の血を引いているということでむしろいじめにもにた扱いを受けることもあった。ターザンも幼少期はそうだった。誇り高き巨大類人猿の群にあって、人間の子であることの劣等感を常に持っていた。
 が、同じような状況であるにもかかわらず、ショッディジージは違った。彼はそのことに対し、劣等感はついに抱かなかった。これは、ジェロニモ(義父)、そしてソンシーアレイ(義母)の教育によるものだろう。むしろ、ジュー(有力な酋長)らの理不尽ないじめに真っ向立ち向かい、実力で認められ、アパッチとしての地位を高めていった。そして最後までアパッチの悪魔であり続けた。これは、類人猿部族の王となりながらも人間でありたくて群を離れたターザンとは根本的に異なる点だ。
 さて、最近、厚木淳訳『ターザン』がでたのを機会に読み返してみて気づいたのだが、ターザンの台詞は、自らを3人称で言い表していた。これは、アパッチの語法に通じるものである。バローズは、〈アパッチ・シリーズ〉を読めばわかることだが、アパッチなどインディアンについて相当調査し、研究している。騎兵隊に所属していたときの経験だけではなく、文献などもかなり読み込んだと思われる。『ターザン』執筆時点ですでにある程度の知識を持っていたと考えるのは自然だろう。つまり、ターザンのキャラクターには意図的にアパッチ・インディアンの性癖が盛り込まれていると思われる。ついでにいうなら『火星のプリンセス』の緑色人、特にタルス・タルカスにもアパッチの習性が読みとれる。バローズはアパッチに入れ込んで、タルス・タルカスやターザンを創造し、それに飽きたらず1926年には〈アパッチ・シリーズ〉に手を染めた、というわけだ。
 しかしこの、15年という執筆時期のずれが示す両ヒーローの違いはどうだろう。どちらもアパッチ(おそらくはジェロニモ)がモデル。生まれとは異なる種族によって育てられ、その種族のリーダーになるが、最後には白人娘と結ばれる。ここまで同じ境遇をなぞりながら、両者のキャラクターは全く異なる。
 それがもっとも顕著に現れるのがヒロインへの愛の告白だろう。
 ジェーンのためにターザンはジャングルを捨て、文明人となった。そのことを率直に伝え、愛を告白し、結婚を迫るターザン。対するショッディジージは決して愛を告げない。人種的偏見から一度は離れたウィチタ・ビリングズが「愛している」と告げても「いずれわかるだろう」としかこたえず、愛の言葉を求められても「わからない」としかいわない。
 ここに、大きな対比が現れる。ターザンは類人猿から人間に、そして文化人にとその運命を右往左往させた。対するショッディジージは常にアパッチだった。
 むろん、環境の違いはある。初めてみた白人がジェーンだったターザンとは異なり、ショッディジージは常に白人と戦い、そして追いつめられる中で矜持を高めつつ成長していった。ターザンは白人の中に入るやいなや貴族的紳士になった。完璧な白人としての外観と地位を持つ男、ターザン。対するショッディジージは白人との関わりの中ではインディアンでしかなかった。
 バローズが本当に描きたかったのはどちらだったのだろうか。共通した枠組みの作品であるだけにその対比には興味がわくが、結論は明らかだろう。
 バローズが本当に描き出したかったキャラクターはショッディジージだ。ターザンは境遇は完璧だが内面の悩みが複雑な人間像を作りすぎていた。だから最初こそ悩めるヒーローだったターザンだが巻を重ねるに従って求道者のような存在になっていった。言い換えるなら、半歩だけショッディジージに近づいた。
 ジャングルの王者といわれるターザンだが、よく考えてみると彼は王ではない。アフリカに広大な領地を持つようになるが、動物たちの王ではない。ワジリ族とはかなり深い関係を築くし、あきらかにターザンが上位の関係だが、それでもワジリの中で王として過ごすわけじゃない。類人猿の王とはなったが、類人猿自体の登場がシリーズの緒数巻に限られ、ジェーンと過ごすようになってからは登場さえしない。英国貴族である点も本国を離れている状態ではあまり意味はない。
 ショッディジージも王ではない。アパッチの戦闘酋長だが、白人に領地を追われ、痩せた地を転々としながら一矢報いようとねらっているのみだ。白人との関係では明らかな下位にいる。そしてその位置関係は過去そして現在の歴史のうえに成り立っているため、決して覆ることはない。
 結局両者は似てくることになった。それはターザンの側の方向転換であって、ショッディジージは常に首尾一貫している。
 バローズが『類人猿ターザン』や『火星のプリンセス』での緑色人の描写で描き出したかったのはまさしくこのショッディジージ、すなわちアパッチそのものであったことを、この類似した二人のヒーローの対比から見えているように、思うのである。

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