ゲスト・エッセイ Guest Essey for ERB's world


挿絵画家・武部本一郎の生涯

大橋博之(日本出版美術研究家)



血脈

 本一郎の父の武部藤太郎は「白鳳」の号を持つ大阪四条派の日本画家だが、藤太郎の父、つまり本一郎の祖父の武部安兵衛(安政三年〜明治二十八年八月)もまた画家である。「勇蜂」の号を持つ四条派の画家だったようだが、それよりも武部芳峰として知られている。

 武部芳峰は、明治十二年一月二十五日に大阪で創刊された〈朝日新聞〉の立ち上げ時から参画した最初の挿絵画家だった。〈朝日新聞〉の標題は芳峰によって図案され、今も西日本版で見ることが出来る。創刊号から記事や小説の挿絵を手掛けて活躍した。芳峰が挿絵を添えた小説は好評で、芝居にもなってさらに人気を博したという。<br>  しかも芳峰は単なる画家ではなかったようだ。朝日新聞の創立者・村山龍平(嘉永三年四月三日〜昭和八年十一月二十四日)の伝記『村山龍平傳』(朝日新聞社/昭和二十八年十一月二十四日)には、明治十五年七月十一日の社員採用の書類に芳峰の捺印があることから「芳峰が如何に重用せられていたかを察するに足りるのである」と書かれており、村山龍平の重心であったことがうかがい知れる。
 明治十六年三月に画工として三谷亦三郎(貞広)が朝日新聞に入社。挿絵は「芳峰が主なる部分を描き貞広が衣服の模様や背景などを分担し、両人合作の非情に筆の細かい密画」(『村山龍平傳』)となった。
 明治二十一年頃には図画係りに武部豊三郎(芳豊)が加わっている。この豊三郎は安兵衛の弟だと思われる。
 芳峰の逸話として、明治十九年一月二十五日の創刊記念日に「画工の武部芳峰のごときは毎月二十五日は新聞創刊の吉日というので赤飯をたいて祝った」(『村山龍平傳』)とある。もっとも「毎月二十五日には天満宮にお参りに行く」というものもいたから、芳峰だけが特別、はしゃいでいた訳ではないようだ。
 明治二十三年六月に「創刊以来好評を博していた武部芳峰中風症に罹り画筆を絶つたので三谷貞広これに代わる」とあり、「挿画担当の武部芳峰は二十八年八月に病没」と『村山龍平傳』に記録されている。

 武部藤太郎(明治四年六月九日〜昭和二年十一月十三日)は、武部安兵衛とタワの次男として生まれた。厳父の気質を受け継ぎ、幼少より画を好んだ。浮世絵を学んでいたが、明治十七年に浪華書学校に入学した。藤太郎はここで西山完瑛(天保五年四月〜明治三十年八月十二日)と出会い、日本画家へと転化した。
 浪華書学校のことは『大阪文化史研究』(魚澄惣五郎・編/星野書店/昭和十八年六月五日)が詳しい。浪華書学校は明治十七年七月、大阪市東区道修町に設立された私立の画学校だった。校主は樋口三郎兵衛(文久三年十月二十七日〜昭和八年八月二十二日)。明治十三年頃に魁新聞を、ついで樋口銀行を設立するほどの資産家だった。明治十三年七月には京都府立画学校(現在の京都市立芸術大学)が、明治二十年十月四日には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立されている。西洋文化が日本に流れ込む中、日本の伝統的な美術の育成を目的として資財を投げ打って誕生させた。
 当初、教師として狩野派の狩野永祥(文化八年一月〜明治十九年一月十七日)があたっていたが、体調が思わしくなかったらしく、代わって西山完瑛がその任についた。
 西山完瑛は父の西山芳園を師とする日本画家である。後藤松陰に儒学を学び、播磨明石藩に仕えた。写生の奥義を究め、父同様に人物や花鳥画を得意とした。大阪画壇で活躍し、後進の育成にも務めた。門下に望月金鳳、久保田桃水らがいる。
 浪華書学校は明治二十五年に閉校されたが、藤太郎と西谷完瑛の師弟関係はその後も続き、明治二十六年に完瑛から「白鳳」の号を授かることになる(武部本一郎の年譜に「武部白鳳は四条派の画家(幸野楳嶺門下)」とあるがこれは間違い)。師を慕う白鳳は完瑛の没後も回顧展を何度か開催している。
 武部白鳳の筆による掛け軸の箱に武部章鳳の名が鑑定として書かれているものが確認されている。本一郎が「洞人挽歌」(〈SFマガジン〉/一九七六年九月号)でいう伯父が、章鳳でないかと思われる。「洞人挽歌」は父・白鳳の遺品の中にあった写生帖にまつわる話だ。
 遺品は昭和二十年三月の空襲でほとんどのものが燃えてしまったが、「辛うじて残った中に二冊の写生帖が見つかり、それがいかにも不思議なスケッチで満たされているとのことで、先年兄から送られてきた。水もかぶっている。手記もあるが読みにくい。後の方は多少保存の状態が良く――鉛筆よりも竹ペン風のものが多い――良く見ると奇妙な人物スケッチがある。しかし、これは父の画風ではない。最近、この写生帖を見ながら唐突に思い出した人物がいる。若死した父の兄、私の伯父である。父とは同門で才能の上では父を凌いでいたらしい。私は少年の時、一度その人に会った憶えがある。大正十五年、私が六年生で、霜降り服を着ていたし、父の発病の少し前だったので六月頃でもあったのだろう」
 しかしこの写生帖は武部本一郎の遺品の中からは見つかっていない。章鳳も謎のままである。


comment

 近年、〈SFマガジン〉〈SFJapan〉〈本の雑誌〉などで武部本一郎関係の研究成果を精力的に発表している、大橋博之氏より、武部画伯の御父君のことを書いた文章を送付いただきました。これは弥生美術館の『武部本一郎展』ほかで配布されている大橋氏作成のファンジン『挿絵画家 武部本一郎』収録の評伝「挿絵画家・武部本一郎の生涯」の一部になります。上記の雑誌に発表した原稿をまとめた評伝ですが、ここに記載したのはこれらの雑誌には掲載されていないもので、大橋氏より当サイトに掲載してほしいとの意向を添えていただきましたので、感謝して掲載させていただくこととします。長年の苦労の上の成果のごく一部ですが貴重なものです。雑誌の限られたスペースでは限界があり、載せられなかったということなのでしょうが、これでもなお書き足らなかったようなので、いずれ近い時期の書籍形式での出版が待たれます。
 大橋氏には、美術館の件でお世話になったのを始め、武部画伯にまつわる数々の伝説を覆す仕事をしていただき、もう感謝と注目の対象です。そう、このファンジンの、続く文章がもう、ファンなら必読ものなのです。
 これからも注目させていただきたいと思っています。


ホームページ | 話そう | 語り合おう