ERB自筆集 Essey that ERB wrote ; transrated version


わたしはいかにしてターザンを書いたか

ワシントン・ポスト 1929年10月27日


 わたしはどのようにして作家になったのかとよく訊かれることがある。そのもっとも妥当な回答は金が必要だったということだ。わたしがこの稼業をはじめたのは35歳のときで、それまでに挑戦したありとあらゆる事業にことごとく失敗したあとのことだった。

 わたしはシカゴに生まれた。伝染病の流行によって通っていたふたつの学校が閉校になったあと、両親のすすめでアイダホの牛の大放牧場にはいり、そこで兄たちのために馬に乗った。わたしの兄はそのころ大学をでたばかりで、エール大学の学位を利用した最高の商売として牛の取引相場に手を出していたのだ。そののち、わたしはアンドーヴァーでフィリップス・アカデミーを退学させられ、マサチューセッツではウェスト・ポイントの試験に落第して退学し、陸軍では心臓病のために除隊させられた。次に兄のヘンリーの協力でアイダホ州ポカテロで文房具店を開店した。それも長くは続かなかった。

 1900年に結婚したときのわたしの収入は、父の蓄電池の仕事を手伝って得る週給15ドルだった。

 1903年、一番上の兄のジョージは黄金採掘の職にわたしを雇ってくれた。ジョージはアイダホ州スタンレー盆地郡で操業していた。私たちの次の宿泊地はオレゴンだった。そこのスネーク川で次兄のヘンリーが黄金採掘業を営んでいたのだ。私たちが貨物列車に乗って到着したとき、所持していたのは1匹のコリー犬と40ドルだった。40ドルぽっちの金はどこでだって得られるはした金だと思っていたので、わたしは1晩100ドルまでの地方の盛り場でのポーカー・ゲームに所持金を賭けることを思い立った。真夜中に宿に戻ったとき、わたしは借金を背負っていた。わたしたちにはコリー犬しかなくなっていた。そうはいってもわたしたちは一文無しというわけでもなかった。

 会社が倒産するまではオレゴンで働いた。そして兄の紹介でソルトレイク市の鉄道警官の職に就いた。わたしたちは確かに貧乏に悩んだが、弱音を吐くにはプライドが許さなかった。わたしたちはどちらも、実用的なことに関しては無知だった。しかし、家庭でのくだらないことをふくむすべてのことを自分たち自身でこなしていかなければならなかった。わたしは妻がそのようなことにかかわるのを見ておれず、その数ヶ月間、自分ひとりでこなすことを自発的に申し出た。わたしは自分の靴をすり減らし、多くの風変わりな仕事をした。

 そして、わたしたちにすばらしい考えが浮かんだ。わたしたちは一家の家具も一緒にもっていた。競売はとんでもなくうまくいった。人々はがらくたに紛れもない現金を出してくれ、わたしたちはファースト・クラスでシカゴへ帰った。それからの数ヶ月は一連のいやな仕事が待っていた。家々をまわっては、門番たちに電球を、ドラッグ・ストアにキャンディを、ストダードの講義を売りあるいた。それらすべてはうまくいかないとわかっていたとき、熟練会計士の求人広告を見つけた。わたしにはその方面の知識はなかったが、応募して採用された。

 わたしは良い悪いにかかわらず一般的に使われている「ブレーク」という言葉について確信していることがある。それは、成功するにせよ失敗するにせよ、能力的に見て分相応になるということだ。わたしがそのとき得たブレークは、雇い主が熟練会計士の職務についてわたし以上に何も知らなかったという事実に、この場合はあった。

 次に、わたしは通信販売に大きな可能性があると考えた。そして、大売場の長に就かせた仕事にたどりついた。その頃、娘のジョアンが生まれている。

 昇進のための十分な仕事とあらゆる期待をもって、業績を上げることで私は自力で実業界に入っていく決心をした。はじめた当初、わたしはまったく資本をもっていなかったが、終わりにはさらに少なくなっていた。このとき、通信販売会社は私が社に戻るならば高い地位を提供しようといってきた。もしそれを受け入れていたら、一生涯、快適な生活を送れるだけのサラリーを保証されたことだろう。しかしてそのチャンスは、私が物書きの仕事をしていなかったらの話だ。どちらがよくてどちらが悪いなんて、いったいどうやったら証明できるというのだろう。

 わたしの事業が成果なく果てようとしていたとき経済状態といえばもうどん底に手が届いているといってよいものだった。ちょうど息子のハルバートが産まれた頃だ。わたしは失業者で、無一文だった。食料を買うために妻の宝石や時計は質に入れた。わたしは貧乏を憎んだ。そして、貧しきことは尊きことかな、などというやからは張り飛ばしてやるべきだと思った。貧乏とは無能の証明であり、それ以上の何ものでもないのだ。そこには尊さもすばらしいことも有りはしない。貧乏になるということは、実際のところ十分に悪いことなのだ。しかし、希望もなく貧乏になるというのは……そう、そのときは間違いなくそうなるとわかっていた。

 わたしは目くらまし広告に答えて書痙をわずらった。そしてほかの誰かの後を追いかけて靴をすり減らした。とうとう、わたしは鉛筆削り器販売のエージェントという立場を得た。わたしは事務所となる部屋を借り、サブエージェントたちが失敗しながらも削り器を売ろうとして出かけているあいだ、最初の物語を書きはじめていた。

 わたしには、自分が書いたものが売れると考える真っ当な理由があった。わたしは数種類の小説専門誌を徹底的に詳細に調べ、大衆がわたしが読んだようなこのような腐ったものに金を払うのであれば、わたしだって同じくらい腐った物語をかけると考えたのだ。わたしはそれまで小説を1作も書いたことがなかったにもかかわらず、そのようにただ単に楽しいと思える小説、そしておそらくはたまたまそれらの雑誌で読むことができたものよりはるかにましな物語をかけるということを間違いなく知っていた。

 わたしは小説を書くための技術をなにひとつ知らなかったが、現在、書きはじめてから18年がたち、新作『ターザンと失われた帝国』"Tarzan and the Lost Empire"の出版でわたしの著作リストには31冊の本が数えられるのにも関わらず、いまだに技術的なことは何も知らない。わたしは編集者にも作家にも出版社にも知己はひとりとしていなかった。わたしはどうやって小説を世に出すかというアイディアさえ持ち合わせていなかった。もしわたしがそれについて何か少しでも知っていたなら、決して1つの小説の半分を送るなどということは考えなかっただろう――しかし、私はそれをしたのである。

 当時マンゼイ社より刊行されていた〈オール・ストーリイ〉誌の編集者だったトーマス・ニューウェル・メトカーフは、わたしが書いた小説の前半が気に入って、もし後半が同じくらい良かったらその原稿を使ってみてもいいと考えていることを書いてきた。もしかれがこの激励をわたしに与えてくれなければ、わたしはその物語を完成させなかっただろう。そして、わたしの物書きとしての生涯は終わってしまっていただろう。わたしは書きたいという衝動や、書くことに対する特別な愛情のために書いていたのではなかった。わたしには妻と2人の赤ん坊がいたし、金がなければ十分に働いているとはいえないということもあわせてあった。

 わたしはその物語の後半を書き上げ、その原稿のかわりに400ドルを受け取った。原稿は、おまけにすべての一続きの権利をも含んでいた。その小切手はわたしの生涯における最初の大きな出来事だった。いかなる金額もおそらく今日では最初の400ドルを得たときのスリルをわたしに与えることはできないだろう。

 わたしの最初の小説は『火星のプリンセス デジャー・ソリス』 "Dejah Thoris, Princess of Mars" と題されていた。メトカーフはそれを『火星の月の下で』 "Under the Moons of Mars" に変えた。それは後に『火星のプリンセス』 "A Princess of Mars" として単行本として刊行された。

 わたしの最初の小説の成功とともに、わたしは自分の仕事をあきらめきれないほど十分に慎重であったにもかかわらず、作家としてのキャリアを整えることを決めた。しかし仕事は金にならず、わたしたちはふたたび大いなる貧困を抱え込み、わたしが小説を書くことで生計を立てられるかもしれないという一筋の希望だけに頼ることになった。わたしはビジネス誌の売り場マネージャーとしてよりよい仕事と土地を手に入れるためにあちこち探し回った。そこで働くいっぽう、わたしは夜ごと休日ごとに『類猿人ターザン』 "Tarzan of the Apes" を書いた。古い便箋の裏や新聞の切れ端に手書きで書いた。わたしはそれがそんなによい物語だとは思わず、売れるかどうか疑問だった。しかしボブ・デイヴィスは雑誌掲載の可能性を認め、わたしは小切手を受け取った……このときは、700ドルであったと思う。

 わたしがそのころ書いていた『火星の女神イサス』 "The Gods of Mars" は〈オール・ストーリイ〉誌のマンゼイ社にただちに売れた。1912年の12月と1913年の1月に書いた『ターザンの復讐』 "The Return of Tarzan" はメトカーフに拒否され、1913年2月にストリート&スミス社に1000ドルで買われた。同じ月に私たちの3番目の子であるジョン・コールマンが生まれ、そのとき、わたしは執筆に専念することを決心した。

 わたしたちは家庭からはほど遠かった。わたしの収入は雑誌掲載の権利を売ることのみに依存していた。わたしはそのころ本を出版していなかったので、したがって印税はまったく受け取っていなかった。当時の数ヶ月で1本でも小説が売れなかったなら、私たち家族はふたたび無一文になっていたことだろう。しかし、わたしはそれらをすべて売った。

 わたしが働かなければならなかったことは、1911年以降毎年のように机の上でわたしのことばが生産し続けたことを示すグラフで証明できる。1913年には年間413,000語となり、そのピークに達した。

 わたしは作品を本の形態にしてくれる出版社を見つけようとあたり続けていたが、いかなる激励にも出逢うことはなかった。合衆国中のあらゆる有名な出版社が『類猿人ターザン』を拒否していた。A・C・マクラーグ社もそれに含まれていたが、同社はついにそれを刊行することになり、単行本化された最初の物語となった。

 その人気と、その単行本という最後の出版形態は〈ニューヨーク・イブニング・ワールド〉編集者のJ・H・テナントの先見性のおかげだった。かれは新聞の連載ものとしての可能性を見いだすと、〈イブニング・ワールド〉でそれをはじめ、その結果は他の新聞各紙が先例にならったいう次第だった。それによってその物語は広く知られるところとなり、結果的にこの物語を単行本化して欲しいという読者からの要望によって、A・C・マクラーグ社はそれを拒否したあとに出版の許可を求めてついにわたしのところにやってきたのだった。

 そして、それがわたしが作家になった方法というわけだ!

(翻訳:長田秀樹)


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 ハヤカワ文庫特別版SFターザン・ブックスの解説に引用もされていた短文の全体。作家になって成功していくまでの軌跡が、成功者の側から描かれているので、多少傲慢な感じがするのはしょうがないか。
 現在ではターザン・ブックスも入手困難なので、さらに貴重な資料のひとつになった。マガジン・ライターとしてデビューして大ヒット作も書いたものの単行本化して印税収入が得られるまではたいへんだという事情が切々と書いてある。結果として成功したから書ける部分も多いのだが。

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