ERB評論集 Criticsisms for ERB


森優「シリーズ随一の傑作」

ハヤカワ文庫特別版SF野獣王ターザン解説より


 1917年までに、バロウズのターザン物語は、雑誌はもとより新聞、単行本で大成功をおさめ、映画化のほうも多少の紆余曲折は経たにしろ(『ターザンとアトランティスの秘宝』巻末解説を参照)、完全に軌道に乗って、翌年早々に封切られ、爆発的な大当たりをとった。
 小説家としても、いまや人気随一、飛ぶ鳥も落とす勢いで、ジャングル談だろうが、宇宙ものだろうが、ロマンスものだろうが、書くそばからどんどん売れた。
 この年(1918年)、彼はシリーズ第6巻の『ターザンの密林物語』 Jungle Tales of Tarzan を脱稿し、2篇のマイナーな作品を片づけると、約7ヵ月かかって、太古世界シリーズ三部作(『時に忘れられた世界』ほか2本)を書きあげ、そのあとでまたもや、ターザンものに着手した。おそらく、映画化第一弾の大当たりに刺激されたのだろうが、当然、読者と出版社からの続巻執筆の要求も大きかったと思われる。
 しかし、今度の新作に費やされた執筆期間は、これまでの巻のように、2、3ヵ月という短時日ではなかった。1918年8月にとりかかって、完成にこぎつけたのはなんと28力月後、1920年の12月であった。むろん、その間これ1作にかかりきっていたわけではなく、途中11ヵ月ほどはムーン・シリーズの一部を含むいくつかの作品に費やされているが。
 したがって分量も他巻に比べて圧倒的に多く、全体でゆうに12万語を越え、のちに単行本としてマクラーグ社から出版されたときには、正続2巻に分冊された。その正巻が『野獣王ターザン』 Tarzan the Untamed であり、続巻が『恐怖王ターザン』 Tarzan the Terrible である。
 それだけに本篇はストーリィの設定、話の盛りあげ方、空想性、あらゆる点で他巻より秀れており、本シリーズ随一の(これ以後に書かれた巻も含めて)傑作という高い評価を受けている。
 本篇のオリジナルは例によって、当時の大衆小説雑誌に連載の形で発表された。どういう理由でかはっきりしないが(おそらく稿料の問題がからんでいたものと思われる)、おもしろいことに『野獣王ターザン』は、章でいえば第1章から13章までの部分が〈レッドプック〉に(1919年)、14章から終章までが〈オールストーリィ・ウィークリィ〉と、2誌にまたがって掲載されている(1920 年)。ちなみに『恐怖王ターザン』はひきつづき、後者の1921年2月から連載されたが、この巻については次回に解説する。
 ここでちょっとおもしろいエピソードをご紹介しよう。本篇の冒頭に、ターザンが最愛の妻ジェーンの無惨な焼死体(と思いこむ)を発見するシーンが出てくるが、このシーンが最初に〈レッドブック〉に登場したときは、死体ははっきりジェーンのものと確認されたように書かれていて、「識別もつかぬほど焼けこげて」もいなければ、「指に彼女の指輸がはめられて」もいなかった。明らかに作者は、ターザン夫人を小説の中で“殺す”つもりだったのだ。
 ところが、掲載誌を〈オールストーリィ・ウィークリイ〉に乗りかえて、物語の結末をつけたときには、いつのまにかターザン夫人の死体は発見されたとき判別もつかぬほど焼けただれ、それがジェーンの死体であることを示す唯一の証拠として、指に彼女の指輪が光っていたことになり、じつはこれがドイツ軍人のいたずらですりかえられた黒人女の死体で、本人はいずこかへ拉致されたまま生きていることがわかる――という筋立てに変えられたのである。
 パロウズの伝記作者ロバート・W・フェントンが、この点を遣児の一人ジョーン・パロウズにただしたところ、彼女はこう語ったそうだ。
「はじめ父は、たしかにジェーンを死なせるつもりでいました。ところが母がそれを読んで父を説得し、ジェーンを生き返らせることになったのです」
 したがって、単行本として出版されたときはむろん、冒頭の部分が結末と辻つまの合うよう、本書のように書きかえられたのである。
 さて、その単行本の版元マクラーグ社が、本書の出版に際してバロウズに提示した契約条件は、これまで以上に好条件だった。彼は印税として、最初の2万5000 部までが定価1ドル90セントの15パーセント、それ以上の部数が出たら20パーセントももらえることになった。
 しかし、長い目で見るとこの契約は結局、かなり高いものについてしまったのだ。なぜならこの本を発表したことによって、彼はのちに、海外での最大のお得意さんの一つであるドイツのパロウズ・ファンの支持を、いっぺんに失ってしまうことになったからである。
 そのエピソードを語るには、その前にどうしても、この作品の書かれた当時の時代背景に若干触れなければならない。
 パロウズがこれを書き始めた1918年にはまだ、三国同盟側(独、オーストリア、伊)と三国協商側(英、仏、露、米、日など)とがぶつかった第一次大戦がおさまらず、東アフリカでもイギリスとドイツが激戦をくりひろげていた。当地に進駐した英軍は兵員の数の上では圧倒的に優位を誇りながら、無能な指揮官のたび重なる作戦の失敗に加えて、熱帯特有の悪疫に悩まされ、将兵約6万2000もの死者を出した(悪疫に倒れた者はそのうち4万8000人以上を数えたという)。さらに、この地方の食人種族や野獣などの襲撃も、ジャングル戦闘に不慣れな白人には脅威だった。怒り狂った蜂の大群に追いまわされて、戦闘が中止になったことさえあったそうだ。
 一方ドイツのほうは、正規兵の数はわずかに3,000と少なかったが、バウル・フォン・レット=フォルペック大佐という指揮官がきわめて秀れた軍人で、地元のアスカリ族をたくみに使って、ちょうど現在の米軍に対するペトコンのように、巧みなゲリラ戦術でさんざんに英軍を痛めつけた。
 この東アフリカにおける英独両軍の戦闘にまつわる実際の事件にヒントを得て、C・S・フォレスターが書いたのが、あの有名な『アフリカの女王』(ハンフリー・ボガートとキャサリン・ヘッブパーン主演で映画にもなった名作。ごらんになった方も多いだろう)だそうだが、バロウズがこの作品を書く材料になったのも、このドイツ軍のゲリラ戦だったのだ。
 当然、若いころ軍人の道を歩もうとして果たさなかった熱烈な愛国者であり、英国貴族の崇拝者であったバロウズが、ドイツに対して激しい憎悪を燃やしただろうことは、想像に難くない。
 その憎悪が本篇に登場するドイツ人を悪虐非道な民族として描かせる原因になったのだが、必然的にドイツ国民の彼に対する反撥もまた激しかった。
 といっても、その反応が作品発表後にすぐ表われたわけではない。フェントンによれば、1923年から25年の3年間に、ターザン・シリーズが第1巻から6巻までたてつづけに独訳され、そのおかげでバロウズはドイツ人のファンを200万以上も獲得したという。この数字は、それまでに独訳された他のいかなる海外作家のそれをも上まわっていた。
 しかし、シリーズ第7作の本書を紹介する段になったとき、ドイツにおけるパロウズの独占出版社チャールズ・ディック社のディック社長はハタとためらった。こんなドイツ嫌い丸出しの小説を紹介したら、どんなことになるか?
 それでなくとも当時のドイツは、第一次大戦敗北のゆりもどしで、日に日に経済状態が悪化し、戦勝国に対する反感が強まっており、そうした国民感情にうまくのっかって、ヒトラーの排他的なナチズムが勢力をのばしつつあったころである。
 結局、ディック社長は賢明な判断を下して、『野獣王ターザン』の出版を見あわせた。ところが1925年3月、ひょんなことからこの作品の内容がドイツ国民の前に暴露されてしまった。
 シュテファン・ゾーレルというジャーナリストがたまたま、英語版の本書を手にいれ、その抄訳を『ドイツ冒涜者ターザン』なる題をつけて発表したのである。
 俄然たいへんな反響がまきおこった。たくさんの新聞がきそってこの話題をとりあげ、作品そのものはむろんのこと、バロウズ本人の人格まで、ロをきわめて罵倒しこきおろした。いわく「質の悪いクズ作文」、いわく「三文ライター」、いわく「才能の貧しい最低の作家」、いわく「キブリングが玉座なら、バロウズは靴屋の腰かけ」などなど。(ラドヤード・キプリングは、ターザンの先駆的作品『ジャングル・ブック』を書いている。両者の関係については、機会を改めて触れるつもりである)。
 一例として〈フランクフルト・ツァイトゥング〉紙から引用してみよう。
「いまいちばん有名な売文業者の一人に、エドガー・ライス・パロウズがいる……さすがの英仏の残虐行為考案者たちにも成し得なかったことを、ニューヨークの駄文作家どもはやりとげたが、中でもバロウズはその筆頭格である……この売文業者が我がドイツ国家について嘘八百を並べたてた非道には、いかなる弁解も許されるものではない……」
 とまあ、こんな調子である。もちろんこの国におけるバロウズの人気は一気に凋落し、彼の翻訳出版物は売れ行きがバッタリとまってしまった。
 この成り行きに当のバロウズがあわてたのも無理はない。彼はただちに同紙に対し次のような内容の謝罪文を書き送った。
「私は、この作品が貴国内で喚起したきわめて当然の憤激を、充分に理解するものであります……しかしながら、この『野獣王ターザン』が書かれた時期は、あのきわめて悲惨な戦争がたけなわだったころで、伝えられるような6年後ではありませんし、貴国の読者に向けて書いたものではないのです……私は少なくとも(この作品の)誤りを正すために、できる限りすみやかに世界中からこの本を回収し、二度と出版しないよう私の出版者と版権代理人に措示いたしました……
 戦争が終ってもう久しい時が流れています。よほどの好戦主義者か近視眼的人間でない限り、国家間の遣恨にもう一度火をつけるようなバカな真似をする者はいないでしょう……この一件は私にとって、この上なく遣憾な出来事であります。なぜなら実際の私は、貴紙が考えておられるような恐るべきけだものでは、まったくないつもりだからです……」 幸いにも、〈フランクフルト・ツァイトゥング〉紙は、手の平を返すように態度をやわらげ、「パロウズ氏、率直に謝罪」と題する次のような記事を掲げて、この件に一応の終止符をうった。
「(本紙に寄せた書簡の中で)氏は率直に、氏の著作がドイツの読者を傷つけたことを詫び、それが戦争中に書かれたものであると語った。これは充分に納得できる弁明である。バロウズ氏はすべての作品をただ一つの目的のために書いたのである――読者を楽しませるために。事実この本はドイツ人のために書かれたものではなく、氏はわれわれの感情を害することを望んでいない……われわれは喜んで氏の誠意を認めよう。不幸にも、この理解がやや遅きに失した感はあるが……」
 しかし、この一時の小康ののち、まったく別の、もっと大きな情勢の変化から、事態は完全にパロウズにとって不利となった。
 ヒトラーが権力の座につくや、ドイツは全体主義国家への道をしゃにむに突進し、〈フランクフルト・ツァイトゥング〉紙をはじめ有力各紙の社長、編集スタッフら“国家にとって好ましからざる人物”はみなその職から追われ、全言論界が宣伝相ゲッペルスの完全統制下に組みいれられて、国家に奉仕させられることになった。
 かつて自自と平和の砦だったペルリン大学の前で、理性を失った大学生たちは、山のように積みあげた書物の山に火をつげた。始皇帝の焚書の悪夢のような再現であった。アインシュタイン、トーマス・マン、フロイト、ゾラ、H・G・ウェルズ、ジャック・ロンドン…夜空を染めて燃えさかる書物の中には、エドガー・ライス・パロウズの作品もあった。
 映画界も同然であった。1934年、ペルリン映画統制委員会は『類猿人ターザン』の上映禁止を決定した。理由は、「野蛮なジャングル男ばかりか、猿までが崇高な人間的感惰を有すると主張するような映画はナチの民族意識にとって有害であり、ナチの理想とする婚姻と女性の尊厳を傷つけ、ナチ国家の民族政策に反する」というものであった。
 ターザンのドイツにおける人気が再び甦るまでには、その後四半世紀を越える長い歳月が必要だったのである。


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